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コロナショック下の世界と日本:グレート・リセットの時代 (15) サイバー大国イスラエルの光と影 東洋英和女学院大学 学長 池田 明史【2021/8/2】

コロナショック下の世界と日本:グレート・リセットの時代

(15) サイバー大国イスラエルの光と影

掲載日:2021年8月2日

東洋英和女学院大学 学長
池田 明史

ワクチン効果

 新型コロナウイルス(COVID-19、以下コロナと略)の世界的な感染爆発は2021年に入っても収束の兆しが見えず、日本においては7月下旬現在その第5波に突入しつつある。累計の罹患者は90万人強となり、死者数も1万5千人を超えている。それでも、ここへきてゲーム・チェンジャーとなることが期待されるワクチン接種が本格化し、感染者の急増と比較して患者の重症化率は有意に低下していると伝えられる。いわゆる変異株の毒性や感染力が格段に強まっていることもあるので、短絡的に楽観すべきではなかろうが、どうやら長いトンネルの先に漸く一条の光が見えてきたように思われる。コロナに対して手の打ちようがなかった昨年の今頃と比べれば、明らかにわが国社会の雰囲気は変わってきており、だからこそオリンピック・パラリンピックも開催に踏み切ることができたのだろう。

 昨年の「コロナの先の世界」シリーズで事例を取り上げたイスラエル(「イスラエルの経験と教訓」、以下『教訓』と略)においても事態は同様で、世界に先駆けて必要量のワクチンを確保し、7月末時点で全国民(900万人強)の約6割が接種済みと伝えられる。60歳以上の国民に対しては、3回目となるブースター接種が行われることにもなっている。累計の感染者数は日本とほぼ同じの87万人強だが、死者数は6500人に満たず、これは確実にワクチン効果にほかならない。このところ、変異株(デルタ株)の感染者を中心に罹患状況が悪化しつつあり、1日当たり2000人程度と増加傾向にあるが、それでも1万人を超えていた今年1月の事態からは相当程度改善された。死者数に至っては1日当たりひとり出るか出ないかというところまで減らすことができている。

 『教訓』では、パンデミック初動期にイスラエル政府が各種の治安・諜報機関で構成されるいわゆる情報コミュニティを総動員して世界中から医療資源や対策情報の収集にあたり、また高度に発達させた固有のトラッキング(接触確認・追跡)システムを導入して罹患者を追跡し隔離するという「離れ業」が奏功した経緯を解説した。現在、イスラエルが誇示するワクチン効果も、情報コミュニティの活用と最先端の監視システムとがその成功の背後に介在しているのは想像に難くない。しかし同時に、『教訓』で指摘しておいたように、そうした防諜技術の一般市民に対する適用については、「感染阻止という生存権と、プライバシーを守る生活権とのいずれが優先されるべきか」という二律背反的な課題をめぐる深刻な論争が展開されたこともまた事実である。やや長文になるが、『教訓』の結語の一文を以下に再録しておく。「コロナの先の世界を見据えようとするとき、われわれは新たな監視技術の利便性や有益性を正しく把握する一方で、それが自由で民主的なわれわれの社会をどのように変容させるかについても認識を共有しておかねばならない。イスラエルにおける情報コミュニティ活用の経験と、これにかかわる論争は、その意味で有意義な教訓を残すものである」。


「ペガサス」疑惑

 2021年7月半ば、パリを拠点とする非営利の国際報道団体「フォアビドゥン・ストーリーズ」は、ワシントン・ポスト紙(米)やルモンド紙(仏)、ガーディアン紙(英)など欧米を代表する有力報道機関17社のコンソーシアムと共に、イスラエルのサイバー技術企業NSOグループが開発したスパイウェア「ペガサス」にかかわる調査結果を暴露した。それによれば、「ペガサス」はiPhoneやAndroid(アンドロイド)搭載のスマートフォンに入り込み、写真ややり取りしたメッセージ、アドレス帳などあらゆるデータを盗み出すことができる。のみならず、遠隔操作で所有者本人の知らぬ間にカメラやマイクのスイッチを操作して画像や音声を盗聴者に届けることができるというものである。

国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、「ペガサス」の標的とされた可能性がある電話番号のリストを公開したが、5万件に及ぶこのリストの中には、フランスのマクロン大統領をはじめ、イラク、南アフリカの現職大統領や、パキスタン、エジプト、モロッコの現職首相、その他7人の各国首相経験者、さらにモロッコの国王が含まれていた。ほかに189人の世界各地のジャーナリストや85人の人権活動家なども対象となっている。

NSOグループによれば、「ペガサス」の顧客は各国政府のテロ対策機関や捜査機関であって、私企業や非政府組織には渡っていないという。そうだとすれば、このリストに載った電話番号が物語るのは、顧客となった各国政府機関が自国内あるいは他国にいる自国にとって監視すべき「要注意人物」の一覧だという解釈になる。もっとも、2016年に作成が始まったとされるこのリストについて、調査では誰によって作られ、随時どのように番号が加えられてきたのか、あるいは掲載された番号のどこまでが実際に「ペガサス」をインストールされているのかなど、肝心な部分は解明されていない。当然ながらNSOグループは自らの関与を一切認めておらず、リストの信憑性そのものにも疑義を呈している。しかしながら、アムネスティは独自にこれらのリストから67件の番号を抜き出し、「ペガサス」への感染を調べたところ、そのうち37件が実際に標的とされており、23件の感染が検証された。


消えぬ憶測

 「ペガサス」の存在とその問題性が前景化したのは今回が初めてではない。2018年10月、イスタンブールのサウジアラビア総領事館内でサウジアラビア国籍のジャーナリスト、ジャマル・アフマド・カショギが惨殺された事件では、背後にムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)の介在が喧伝されたが、MBSは自国の情報機関に国交のないイスラエルから「ペガサス」を導入させていたとされ、実際にリストにはカショギの婚約者らの番号も載っている。カショギ事件の直後から、被害者の言動の監視と所在の特定に「ペガサス」が用いられたとの観測が流れていた。また、2020年後半にはイスラエルはアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、スーダンと相次いで国交を樹立し、モロッコとも復交したが、関係正常化の対価の一部として各国への「ペガサス」システム輸出を容認するという条件があったのではないかと憶測されてもいる。

 「ペガサス」やこれに類したスパイウェアは、イスラエルにおいて先端的軍事技術と看做されており、その輸出や対外移転には国防省の認可を必要とする。理論的にはそこで、売却先の政府機関の使用目的や信頼性などの審査が行われ、厳密にテロ対策や犯罪捜査といった用途以外に運用されないとの確約がなければ輸出できないことになっている。NSOグループはこれまでに45の国家に「ペガサス」を提供し、90の国家への移転を拒否したとしている。しかし現実には、いったん売却された後、これを手中にした各国政府がどのように運用しているのかを監視するのは極めて困難である。45の国々の内訳は不明だが、「ペガサス」獲得が取り沙汰されるサウジアラビアやUAE、バーレーン、スーダン、モロッコは、お世辞にも民主主義とは看做しがたい。これらの独裁国家で「ペガサス」がどのように運用されるのかは推して知るべしであろう。

越境する矛盾

 パンデミックの蔓延出来から一年半の間、中東では各国がコロナ禍対策を最優先の課題とせざるを得ず、対外的な軋轢の減殺を目指した結果、レトリックはともあれ現実には各国とも挑発行動を自制し、いわば事実上の「コロナ休戦」が実現した観がある。国内的にも、2019年には各地で街頭大衆による反政府示威行動が頻発していたのに対して、コロナ禍を口実に各国政府は強権を発動して街頭に繰り出そうとする人々を屋内に押し込めることに成功した。しかしそれは、人々の憤懣が消失したことを意味しない。コロナ禍がもたらした、あるいは今後もたらすであろう経済的社会的損失は、人々の憤懣のそもそもの淵源となった貧困や格差、社会的不公正、統治システムの歪みや政治的腐敗といった問題をさらに悪化させよう。社会のさらなる不安定化が予測されるなか、一般国民とりわけオピニオンリーダーと呼ばれる人々の言動を包括的に監視できる「ペガサス」のような侵襲性の高いスパイウェアは、各国の為政者にとって垂涎の的となりつつある。

 問題は、そうしたスパイウェアなど高度の先端サイバー技術を開発・製品化して国家の主要産業に育て上げつつあるイスラエルという国家の位置づけである。アムネスティによれば、今回の監視盗聴疑惑において実害が生じた場合の責任を問われるのはNSOという私企業ばかりではなく、それらの産業を国家的に支援し製品の輸出許可を与えているイスラエル政府であるとしている。イスラエルはサイバー大国であり、その技術力は世界でもトップクラスにあるが、開発されたサイバー兵器の輸出に関しては包括的で厳密な規制を欠いているとの批判が向けられているのである。したがって、NSOを含めてイスラエルのサイバー産業全体が、政府のより厳しい管理の下に、基本的人権の尊重を確実に担保できていることを挙証するまでは、「ペガサス」などの監視技術の輸出、売却、移転、使用を即刻停止するべきだと、アムネスティは主張している。『教訓』で論じた監視技術の利便性や有用性と、自由で民主的な開かれた社会との二律背反は、いまや国境を越えて拡散しつつある。


執筆者プロフィール
池田 明史(いけだ・あきふみ)
東洋英和女学院大学 学長

東北大学法学部卒。アジア経済研究所研究員、イスラエル・トルーマン研究所客員研究員、英オクスフォード大学客員研究員などを経て1997年東洋英和女学院大学社会科学部助教授、で着任。2001年同大学国際社会学部教授。2014年から学長。アジア経済研究所名誉研究員。専門は国際政治学、中東現代政治。
主要著作に「イスラエル国家の諸問題」(編著、アジア経済研究所、1994年)、「途上国における軍・政治権力・市民社会」(共著、晃洋書房、2016年)等



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