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コロナショック下の世界と日本:グレート・リセットの時代 (4) コロナワクチン開発では先行したロシアが抱える3つの弱み 一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所 所長 服部 倫卓【2021/5/28】

コロナショック下の世界と日本:グレート・リセットの時代

(4) コロナワクチン開発では先行したロシアが抱える3つの弱み

掲載日:2021年5月28日

一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所 所長
服部 倫卓

ロシアはコロナワクチンの勝者か?

 ロシアのM.ミシュスチン首相は5月12日、恒例の政府活動報告を議会下院で行った。その中で、新型コロナウイルスのワクチン開発につき、次のように述べて成果を強調した (※1)

ロシアの専門家たちは、すでに4種類のワクチンの登録にこぎ着けている。それは、学・産・官による共同作業の賜物と言うべきだろう。今日、我が国は主導的な生物工学立国の1つであり、この分野で課題解決を遂げることのできる国は世界に6つしか存在しない。

ロシア産のワクチンは、すべてが安全で、効果が高い。「スプートニクV」は厳格な 検証を経て、信頼を勝ち取っており、すでに世界65ヵ国で承認されている。スプートニクVへの需要は膨大である。政府は、国外でその生産を組織することを支援しているし、またすでに世界34ヵ国に輸出もされている。

とはいえ、当然のことながら、優先すべきはロシア国民である。大統領の指示により、昨年暮れに全土で、任意で無料の大規模ワクチン接種が始まった。すでに2,400万人が、いずれかの段階のワクチン接種を完了している。我が国は年末までには集団免疫を実現しなければならない。肝心なのは、国民がより積極的に接種を受けることである。

 一方、フランスの著名な国際政治学者のパスカル・ボニファス氏は今年2月、メディアのインタビューに応じ、ロシアはコロナワクチンの勝ち組になったと評している。以下はその抄訳である (※2)

世界的なパンデミックを背景に、「ワクチン外交」という現象が生じており、多くの国がそれに努力を傾注している。その中で、最も鮮やかな勝利を挙げたのはロシアであり、現在のところ地政学的な戦いでリードしている。

V.プーチン大統領がワクチンを発表した当初、冷笑的な論評が多かった。世界の目には、「スプートニクV」という名前からして、ソ連への回帰を思わせ、大仰さを感じさせた。しかし、このワクチンは実際に効果がある。このワクチンは、従来の旧ソビエト圏をはるかに超えて輸出され、ロシアに今年250億ドルの利益をもたらすと言われている。

ワクチンによって、ナワリヌイ事件(訳注:2020年8月に反体制派指導者のA.ナワリヌイ氏が毒物によって暗殺されそうになり、その後もプーチン体制と同氏陣営の対決が続いていることを指している)を消し去ることはできない。ただ、ロシアのワクチンを受け入れようとしている国々は、民主主義の国から来たものなのか、権威主義の国から来たものなのかを問うことはない。ワクチンは効果があるようであり、それによりロシアのイメージを、完全に回復させることはできないまでも、部分的には回復している。そして、プーチンにとっては、国内的にも、国際的にも、成功である。

スプートニクVとは

 ここで改めて概要を記すならば、スプートニクVはロシア保健省付属のガマレヤ記念国民疫学・微生物研究センターが開発した新型コロナウイルスのワクチンである。タイプとしては、2種のアデノウイルスベクターを用いたウイルスベクターワクチンということになる。ロシアは自国開発のこのワクチンを、2020年8月11日に承認しており、これは世界初であったとされている。

 スプートニクVという名前に関して言えば、スプートニクは人工衛星を意味し、具体的には1957年にソ連が打ち上げ、米国を含む西側陣営にショックを与えた人類初の人工衛星スプートニク1号にちなんでいる。そして、Vはvictory=勝利の頭文字。ロシアがウイルスとの戦いで世界のトップランナーであると誇示するような名前だ。

スプートニクVの公式ロゴ
スプートニクVの公式ロゴ

 なお、2020年12月のインタビューで、ガマレヤ研究センターのA.ギンツブルグ所長は、スプートニクVの開発総額は15億ルーブル程度であったと証言している。日本円に換算すると22億円程度ということであり、欧米の巨大企業のそれと比べると破格の低予算と言えそうである。スプートニクVは、ロシア国内では、ガマレヤ研究センター自身のほか、民間製薬企業4社ほどによって生産されている。

 これまで、ロシア国内で実際に接種が進んでいるワクチンは、大部分がスプートニクVであるが、2021年5月半ばまでにロシアで承認された自国開発ワクチンはこれ以外に3種類ある。ロシア連邦消費者権利監督局付属の国立ウイルス学・生物工学研究センター(ヴェクトル)が開発し、2020年10月に承認されたた「エピワクコロナ」。ロシア科学アカデミー付属のチュマコフ記念連邦免疫生物学製剤研究開発センターが開発し、2021年2月に承認された「コビワク」。そして、前出のガマレヤ研究センターが開発し2021年5月に承認された「スプートニク・ライト」である。

 このように、ロシア開発のワクチンに共通しているのは、いずれも政府系の研究機関が開発したという点である。つまり、プーチン政権が強力な後押しをして、政府系機関に開発を急がせた成果であると考えられる。軍需や宇宙開発にも通じることだが、国家主導で何かを開発するというのは、ロシアが最も得意とするところであり、コロナワクチンにもそれが発揮された。

接種は遅れる

 しかし、肝心のロシアにおけるワクチンの接種は、遅れている。英統計専門サイトのOur World in Dataのデータベースによれば、5月25日までにワクチン接種を1回でも終えた国民は、ロシアの総人口の10.8%に留まっており、これはデータベースにある世界204の国・地域の中で98位という平凡な成績である。主要国の接種率の推移を比較した図1を見ても、ロシアのそれが伸び悩んでいることは一目瞭然だ。

 また、ロシア当局が情報の開示に消極的であるため、正確な数字は得られないが、スプートニクVのロシア国外への供給も、今のところきわめて限定的である。上で述べたように、ミシュスチン首相は、スプートニクVがすでに世界65ヵ国で承認され、世界34ヵ国に輸出もされていると胸を張った。しかし、これまではロシア国内への供給を優先していたこともあり、外国向けには試験用などに少量が提供されただけのようである。

 ロシア自身による供給能力が低いため、少なくとも今夏までは、ロシア国内で生産されたスプートニクVは基本的にロシア国内に供給される見通しである。そこで、ロシアはスプートニクVを国外でライセンス生産する事業も推進している。本件担当のロシア直接投資基金はすでに、インド、中国、韓国、ブラジルをはじめとする10ヵ国の15社と、現地生産に関する契約を調印したとされる。ただ、多くの場合、その生産が本格化するのも、まだこれからである。

 このように、ロシアは先駆的にワクチン開発にこぎ着けながら、ロシア国内の接種状況はそれに見合ったものではなく、また世界的にスプートニクVは充分な存在感を発揮できていない。前出の国際政治学者パスカル・ボニファス氏の見立てに反し、現時点でロシアがワクチン外交の真の勝者となりえているとは言いがたい。

 なぜ、ロシアはワクチン開発面での優位をフルに活かせなかったのか? 管見によれば、ロシアには3つの弱みがあった。以下でそれぞれにつき検討してみたい。

図1 世界の主要国で総人口に占めるコロナワクチンを1回でも接種した人の割合(%) (出所)Our World in Data

弱み1:弱体な医薬品産業

 ロシアは、医薬品産業が未発達であり、外国からの輸入でまかなっている部分が大きい。プーチン政権もその課題を認識しており、数年前から医薬品の輸入代替生産を推進しようとしているが、成果ははかばかしくない。

 2012年11月にロシア政府が採択した国家プログラム「医薬品・医療産業の発展」では、2011年時点で25%だったロシアの医薬品消費に占める国産品の比率を、2020年までに50%に高めるという数値目標が示された。

 しかし、現実には、ロシア医薬品市場に占める国産品の比率は、2020年上半期の時点で31.9%に留まっている。しかも、ロシアで生産される医薬品の80%以上は、外国から輸入した原薬(有効成分)を使用していると言われている。

 このように、民間の製薬部門が弱体だと、たとえワクチンの大きな需要を見込めても、すぐにそれに対応して生産体制を構築することは容易でない。ワクチン製造にかかわる機械設備の需要が世界的に高まる中で、まずそれを外国から調達するのが困難であるし、必要な人材の確保もボトルネックとなる。

 国家主導でワクチンを開発できても、それを然るべき規模で量産する民間製薬部門が弱体というロシアの弱点が、浮き彫りになった形だ。

弱み2:国家と社会の信頼関係の欠如

 とはいえ、スプートニクVは、ロシア国内に必要量を供給できる程度の生産体制は、2021年春の時点でほぼ整ってきた。問題は、少なからぬロシア国民がワクチン接種に消極的であり、接種率が思うように高まらないことである。

 ロシアの調査機関「レヴァダ・センター」は、スプートニクVが開発されて以来、それを個人的に接種する用意があるかどうかを、世論調査でロシア国民に問うている。その結果をまとめた図2を見ても、ロシア国民が接種に後ろ向きであることは歴然である。接種を受ける用意がないという回答者は、どちらかと言うと増加傾向にある。

図2 ロシアの世論調査結果: 貴方はスプートニクVの接種を受ける用意がありますか?(%) (注)2021年4月の調査は、1,614名の成人回答者を対象に実施(それ以前の調査については回答者数は明記されていない)。なお、2020年分のデータは原典にデータラベルがなかったため、筆者がグラフから判読した。 (出所)

 ロシアの政治評論家A.マカルキン氏は、国民の多数派がスプートニクVの接種に難色を示している原因として、国民の政権に対する、そしてエリート全般に対する不信感によるものと説明している (※3)

 筆者はしばらく前の論考で、次のように指摘した。「感染対策には、政府による対応だけでなく、企業や市民による自発的な行動も不可欠であり、その際に国家と社会の信頼関係が死活的に重要である。ロシアでは、コロナ危機と、それと並行して進展した改憲プロセスとによって、国家と社会の乖離は拡大しており、そのような国に真の優位性があるかは疑問である」 (※4) 。ロシアがワクチンの開発では先鞭をつけながら、多くの国民が自国開発のスプートニクVを信用せず、接種が頭打ちになっている現状は、改めてロシアにおける国家と社会の溝の深さを示した形である。

 ただし、ここには奇妙なねじれ現象が見られる。ロシアにおいてプーチン体制をよしとしない傾向が強いのは、首都モスクワをはじめとする大都市の住民である。ところが、コロナワクチンに関しては、知識水準の高い大都市住民ほど積極的に接種している。むしろ、普段プーチン体制を抵抗なく受け入れているような田舎の住民が、ワクチンに関するステレオタイプゆえに、接種に拒絶反応を示していると指摘される (※5)

弱み3:国際社会との軋轢

 ロシアでスプートニクVが承認された当初、国際社会からは、それが大規模な治験を経ておらず、安全性や有効性が未知数であるという批判が多く寄せられた。そもそも諸外国では、ロシアが科学技術先進国であるというイメージは希薄であり、ロシアと言えばむしろ反体制派A.ナワリヌイ氏の暗殺未遂事件をはじめとするプーチン政治の暗部が連想される。国際社会が、「反体制派を毒殺するような国が、人類を救うワクチンを産み出すだろうか?」と、懐疑的に受け止めたのも無理はなかった。

 しかし、その後、スプートニクVの有効性や安全性は、決して欧米多国籍企業のワクチンに引けを取らないことが明らかになり、むしろスプートニクVの方が優位であるとの情報すら伝えられるようになった。権威ある英医学誌『ランセット』が2月に、スプートニクVで91.6%の感染予防効果が確認されたとする論文を掲載(※6)したことが決め手となり、このワクチンの有効性に疑問を呈するような声はほとんど聞かれなくなった。

 しかし、世界のコロナワクチン地図は、ファイザー、アストラゼネカ、モデルナという欧米多国籍企業の製品が優位の形で、固まりつつある。開発で先行したスプートニクVは、市場への浸透で出遅れた感が強い。そして、ロシアという国のイメージの悪さ、欧米との政治的対立関係が、緒戦での苦戦に繋がったことは否めないだろう。

 S.ナルィシキン連邦対外情報庁長官は5月20日、ロシア国営テレビのインタビューに応え、欧州各国の薬事当局はスプートニクVの承認を引き延ばしており、それは欧州連合(EU)上層部の指示によるものだと指摘した。もちろん、そのような現実が実際にあるかどうかは、外部からはうかがい知れない。いずれにしても、EU側が政治的理由でロシア製ワクチンを忌避したとしても、道理であるほど、ここ数年でロシアが欧米との関係を決定的に険悪化させてきたことは、紛れもない事実である。

※1 http://government.ru/news/42158/ なお、後日、首相が述べた「すでに2,400万人が、いずれかの段階のワクチン接種を完了している」というのは正確ではなく、1回目、2回目を合わせた接種回数が2,400万回であることが明らかになった。
※2 https://www.ouest-france.fr/sante/virus/coronavirus/entretien-vaccin-contre-le-covid-19-la-russie-remporte-la-bataille-sur-le-plan-geopolitique-7152146
※3 https://newtimes.ru/articles/detail/201555/
※4 服部倫卓「コロナ危機であらわになったプーチン・ロシアの国家体質」一般財団法人国際経済連携推進センター(編)『コロナの先の世界 ―国際社会の課題と挑戦』(2020年、産経新聞出版)、199頁。
※5 A.ラブィキン「ワクチンを接種しよう! 適時に」『エクスペルト』誌(2021年3月22-28日号、No.13)。原典はロシア語。
※6 https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(21)00191-4/fulltext


執筆者プロフィール
服部倫卓(はっとり・みちたか)
一般社団法人ロシアNIS貿易会 ロシアNIS経済研究所 所長

1964年静岡県生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程(歴史地域文化学専攻・スラブ社会文化論)修了(学術博士)。主な著作に、『不思議の国ベラルーシ ―ナショナリズムから遠く離れて』(岩波書店、2004年)、『ウクライナを知るための65章』(共編著、明石書店、2018年)など。

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