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ナレンドラ・モディ政権下のインド経済

インド研究会/
識者の発表に基づく概要とりまとめ(1)
ナレンドラ・モディ政権下のインド経済

研究会開催日:2024年 4月3日

神戸大学経済経営研究所 教授
佐藤 隆広

1.モディ政権10年間の経済政策概観
 2014年5月に成立したナレンドラ・モディ政権の10年間の経済政策には、極めて厳しい評価をしている。モディ政権は、発足当時にインド経済が直面していた最大の問題であるスタグフレーションを2年という非常に短い期間で解決したが、2016年11月の高額紙幣廃止と2020年3月末からのロックダウン、また、保護主義的な関税政策やRCEPからの離脱など経済合理性に著しく欠ける政策の結果、インドは1人当たりGDPでバングラデシュに逆転されることになった。グローバル・バリューチェーンへの参入と輸出志向の労働集約型工業化に成功したバングラデシュの政策は方向性としては正しく、インドの政策が間違っていたのであり、この逆転は根の深いものと考えられる。

2. インド経済の明るい側面
 インド経済の光の側面としては、スタグフレーションを2年間で解決したことを挙げられる。モディ政権は、スタグフレーションという非常に厳しい経済危機を、ラグラム・ラジャン準備銀行総裁(当時)と協調して解決した。欧米では石油ショック後、未曾有の事態だったスタグフレーションを完全に解決するのに約10年かかった。インドが2年という短期間でスタグフレーションを解決したことは素晴らしく、高く評価してもし過ぎることはない。これにより、インドでは約9%の経済成長率が10年ほど続くのではないだろうかとも思われた。
 モディ政権は2014年に、100日計画を進める形で、外国直接投資の規制緩和や計画委員会の廃止といった行財政改革にすぐに踏み込み、2016年には新しい倒産法(IBC)制度が成立した。この制度により、エッサール・スティールという鉄鋼会社をアルセロール・ミッタルと日鉄のグループが買収した。倒産法制度も極めて大事なものだった。2017年には、過去30年間懸案となっていた中央と州の間の間接税体系の統一を物品サービス税(GST)の導入により実現し、2022年には国営航空会社Air Indiaをようやく民営化し、タタに売却した。これらに関しては良い改革だった。
 実際、モディ政権は世界銀行の事業環境ランキングを高めることに注力し、2014年には世界142位だったのに対し、2019年には79カ国をごぼう抜きにして63番目にまでランキングを高めた。このことは、インドがそれなりの経済改革を実施してきたことを意味する。
 さらに世界の人口のランキングで、人口が年間1000万人増える状況になって、インドは世界最大の人口大国になった。仮に実数ベースでは違っても、少なくとも数年以内には必ずそうなるだろう。インドは経済規模でも、イギリスを抜いて世界第5位の経済大国となった。IMFの予測では2027年にはドイツと日本を抜いて、世界で3番目の経済大国になるとされている。
 インドは宇宙開発技術に関し、火星探査機の火星周回軌道への投入、人工衛星を載せたロケットの打ち上げと軌道投入、無人月面探査機の月面着陸、太陽観測衛星の発射を成功させるなど、非常に優れた技術力を世界に対してアピールし、後発薬の分野では、数量ベースで恐らく世界最大の生産国、輸出国であり、コロナのワクチンも短期間で大量に生産することに成功した。インドはこのような形で世界的に高く評価されている。

3. リープフロッグ(蛙飛び)するインド経済
 インドが世界的に注目されているもう1つの側面にリープフロッグ(蛙跳び)と呼ばれるものがあり、先進国でもできないようなビジネスのモデルの展開やデジタル化など、世界で一挙にフロントランナーになっている分野がある。
 まず、インドは大卒以上の学歴を持ち、英語が話せる人材が豊富で、1億人弱ぐらいに上っている。米国でH-1Bビザ(専門技術者として一時的に就労する場合を対象としたビザ)によりITの専門職として働くインド出身者は、かつては70万人とか80万人いたと言われ、トランプ政権の下で発給件数は大幅に減ったものの、今でも30万人ぐらいに上っている。実際、ICTの分野では、経営人材にせよエンジニアにせよ、インド人がこの分野では圧倒的な強さを発揮している。インドの圧倒的な強さの源泉だと思われるこのような人材について、われわれはもっときちんと考え、調べる必要がある。
 かつてはインドから海外への「頭脳流出」(brain drain)が問題視されていたが、現在は欧米諸国で成功してインドに帰国して起業する事例や、米国で成功した人がインドの起業家を支援するといった「頭脳循環」(brain circulation)に変わったとされている。デジタル化が一層進展している中、これがリープフロッギングの人的な背景になっている。
 さらに、時価総額が10億ドル以上で未上場の若いベンチャー企業であるユニコーンについては、昨年はあまり実績が良くなかったものの、インドはアメリカ、中国に次いで世界第3位になっている。インド発のユニコーン企業には、フィンテックとEコマース分野が多くなっているが、その背景としては、現在インドにおいて極めて大事なデジタル公共インフラと言われている「インディア・スタック(India Stack)」の存在がある。
 米国であればアップル、アマゾン、中国であればアリペイやテンセントなど、民間のプラットフォーマーがデジタルプラットフォームを独占して、そこで自分たちのエコシステムを作っているが、これに対してインドのインディア・スタックの発想は、インド政府がさまざまな形の支援を行うものである。民間とパートナーシップを組み、インド政府がお金を出して、そして無料あるいはできるだけ安い値段で、デジタル公共プラットフォームをさまざまなインド企業に提供する。
 インド政府はこうしたデジタル公共プラットフォームを意図して作ったわけではないと思われるが、過去20年間にデジタル化が進んでいく中、携帯電話や生体認証可能な国民IDシステムであるアーダールが普及し、さらに銀行の国民皆預金制度といったものが集積していった。その中で自然に政府と民間のパートナーシップで結果的に生み出され、更に強化されているのがインディア・スタックである。これは過去20年間におけるインドの経済発展の歩みの中で最大のイノベーションであろう。
 インディア・スタックの仕組みの下で、ほぼ無料で使えるアプリケーション・プログラミング・インターフェース(API)が公開されており、そこにつなげれば自社で大型サーバーを持つ必要はなく、ITインフラにそれほど投資しなくても良い。尖ったビジネスモデルを、その仕様に沿って製品化してインディア・スタックにつなげれば良い。これが、インドがユニコーンをこれだけ輩出している背景であろうし、この分野の強みの源泉だと思う。こういう点で非常に重要なインフラをインド政府が支援し、開発・進化させてきたということだ。
 実は日本の銀行もインドのフィンテックにものすごく熱い視線を向けている。さらに、インド準備銀行は現在、中央銀行デジタル通貨である「デジタル・ルピー」の実証実験を行っている。インドの民間銀行Yes Bankはデジタル・ルピーをインディア・スタックの第2層にあたる政府の統合決済インターフェース(UPI)に統合させた。Yes Bankは、自分たちの行員の給料支払いや行員たちが財・サービスを購入するためにデジタル・ルピーをUPIに結合させている。

4. 保護主義に陥る経済政策
 モディ政権の政策で、経済合理性の観点からは理解しづらいものが2つある。1つは2016年11月の高額紙幣廃止、もう1つは2020年3月末から1年弱ぐらいの強力なロックダウンである。なぜこのような政策を実施したのか。恐らくこれは政治の問題、選挙で勝つためとしか考えられない。
 ほかにも残念なことがある。経済改革は91年以降のインドの経済発展の重要な要素・背景であった。しかし、例えば、非常に重要な経済改革である土地収用法の改正が実現できず、インフラ、工業団地の整備、産業集積が進まない。また、農業関連3法は、企業と農民が契約を結び、契約農業を規範化する法律でもあり、中央政府はそういう重要な法律を立法化、施行したが、農民の大規模な反対運動を受けて、すぐに廃案にした。さらに、植民地時代に形成されてきた44の労働法を2019年から2020年にかけて4つの法典にまとめたものの、施行を順延している。
 このように、モディ首相は速やかに実施すべき非常に重要な経済改革をやっていない、やりかけても農民の抵抗運動などに直面して廃止しまうという腰砕けになっている。モディ首相は残念ながら、経済改革を実施し、インド経済の足腰を長期的に強くし、高い経済成長を実現していくといった地味な取り組みをやらなかったのである。 このように改革が進まないだけでなく、モディ政権は経済改革路線を逆転させるような保護主義的な関税政策も実施してきた。インドは2018年からは明示的に保護関税政策を行っているが、実はモディ政権発足直後の2015年あたりから、こっそり、関税政策を使い始めている。
 関税政策の味を一旦知ってしまったので、やめるのは難しい。インドはモディ政権までは、アンチダンピング関税やセーフガードなど、WTO協定で認められている輸入規制や、認証に関わるような非関税障壁を少し取り入れる程度だったが、今では保護関税政策を強力に行使している。インドの保護関税政策は、履物や家具、繊維など、競争力のない産業を保護する後ろ向きの政策という点がポイントである。
 もっとも、自動車部品やエレクトロニクスなどの通信機器の部品の関税も高めており、それは前向きな戦略的な産業政策と評価できなくはないが、大勢としては、ローテクの労働集約的な、未来のない産業を保護する政策を採用した。さらに、インドは2019年11月、「地域的な包括的経済連携」(RCEP)から突然離脱した。その結果が、バングラデシュとインドの1人当たりGDPの逆転に繋がったと見ている。

5.前向きな産業政策
 とはいえ、インド政府は現在、経済学で言う幼稚産業保護論の文脈で、非常に面白い政策を展開している。2020年から実行されている「生産連動インセンティブ計画」(PLI)と言われているものである。これは、国内生産に対して補助金を大体5年間、長い場合は8年間提供し、その間に競争力を高めてコストを安くし、海外との競争ができるようなところまで努力させる生産補助金政策である。興味深いのは、地場企業のみならず、外資系企業もこの補助金政策の対象として認定されて、地場の企業VS外資系メーカーのような競争もさせることである。地場のメーカーと外国の企業の合弁事業も推奨している。従って、国内の資本を優遇するような後ろ向きの政策では決してない。
 前向きな産業政策としてもう1つ挙げられるのは半導体政策で、「インド半導体ミッション」(ISM)というものである。これも2兆円ぐらいの予算規模で、まさにアメリカのCHIPS法みたいなものだが、インドに半導体の工場を誘致し、そのためのセットアップ費用の半額をインド政府が補助することを想定している。例えば、米マイクロン社はグジャラート州で半導体の後工程の新工場を建設することになった。インド政府が州政府と合わせて7~8割程度を補助する。このように、半導体の後工程に関しては実際に補助がもう始まっている。このほか、台湾メーカーのフォックスコン、インド地場企業のタタやベダンタがISMに関心を示しており、ムルガッパ財閥は日本企業のルネサスエレクトロニクスの資本を二十数億円受け入れ、半導体の後工程の分野で合弁事業を行うことになっている。日本企業のラピダスについては、インド政府と日本政府によるインドの半導体分野の人材育成で様々な形で協力することになっている。
 インドにとっては1980年代から40年間、半導体産業を自国で作ることが産業政策の極めて重要な柱であった。ラジブ・ガンディー政権時からの重要な念願がようやく実現できそうである。

6.地政学的リスクの顕在化とインド経済の展望
 ロシアのウクライナ侵攻により、原油価格は1バレル100ドルから130ドルまで跳ね上がった。インドは石油の国内消費のうちの80数%から90%近くを輸入しているため、石油価格の高騰により国内でインフレが起こり、景気悪化が同時に起こった。大変な状況であったが、これに対してインドは驚くべき対応を行った。インドは欧米、特にヨーロッパ諸国の大反対を押し切って、旧ソ連時代からの特別な外交関係、安全保障上の極めて重要なパートナーであるロシアから割安で原油を買い付けることに成功した。経済制裁でドルやユーロは使えないため、インドは原油をルピー建てで輸入した。インドの商業銀行に、ルピー建てで取引するため、ロシアの商業銀行の預金口座を至急開設し、安価なロシアからの原油を輸入した。現在、インドにとって、世界で最大の原油輸入相手国はロシアである。
 このようなことを、どんな安全保障、外交上のリスクを背負ってでもインドが実行した背景には、インドでは選挙を前にインフレ率が10%を超えると、翌年の選挙で必ず負けるという非常に有名な経験則がある。インド国民はインフレに対して大変センシティブで、選挙を目前に控えている中、インフレ問題に何とか対応しなければならず、モディ政権はロシアからの原油の割安の輸入に踏み切ったのだろう。そのほか、昨年は天候不順でトマトの値段が20倍になり、玉ねぎの値段も高くなった。野菜の価格は当然ながら、様々な天候、気象条件で乱高下するが、インド政府はその都度、他省庁の大事な予算を削ってでも、食料の値段を安くするための様々な支援策を打っている。インド政府はとにかく物価の安定を図ることに注力している。地政学的リスクもありながら、インドは今月始まる選挙に向けて、とにかくやれるだけのことはやっている。
 モディ政権が第3期になろうが、野党連合が勝とうが、インドはまだまだ貧困国であり、やはり経済発展によって貧困問題を解決していかなければならない国である。そのためには高い経済成長率が極めて大事で、そのための経済改革は重要と思われる。

以  上



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