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コロナの先の世界(19) 「自立したインド」の実現に求められるもの 日本貿易振興機構 アジア経済研究所 バンコク研究センター所長 野口 直良 【2020/07/16】

コロナの先の世界

(19) 「自立したインド」の実現に求められるもの

掲載日:2020年7月16日

日本貿易振興機構 アジア経済研究所
バンコク研究センター所長 野口 直良

 新型コロナウイルス (以下、新型コロナ) による国内の混乱が顕在化する前の今年1月初旬、インド政府は2019年度の実質GDP成長率が前年度比1.8ポイント減の5.0%となる見込みを発表した (5月末の修正で4.2%へさらに引き下げ) 。

 これはリーマン・ショックにより低迷した2008年度の成長率3.1%以来の低成長で、モディ政権にとっては大きな痛手であった。2020年の経済底上げは重要な課題であり、立て直しに注力しようとした矢先の新型コロナ禍となった。更には、これに追い打ちをかけるように中国ファクターが加わり政権にとっては「二重苦三重苦」の状況になっている。モディ首相は「自立したインド」という新たなスローガンを発表し、新型コロナ以降インドが進むべき道筋を示し、またそれに基づき現下の厳しい局面を乗り切ろうと取り組んでいる。

感染者は増加するも規制は段階的解除

 武漢大学に留学していた帰国学生が1月末にケララ州において新型コロナを発症した。これがインドにおける最初の感染症例となった。その後4月までの間には欧州や中東旅行からの帰国者に感染が相次いで見つかり、宗教催事に出席した感染者達がスーパースプレッダーになって感染の勢いが徐々に増していった。インド保健・家族福祉省によれば、本稿を執筆している7月13日時点で累計感染者数は約87.8万人で、これは米国、ブラジルに次ぐ世界3番目の感染規模となっている。

 政府は1月末から対象国を漸次拡大しながら海外から到着する国際旅客に対し空港での検疫を開始。3月に入ると一部例外を除く入国ビザの効力を停止し22日には単発の時限的な外出禁止を発令した。その後24日には、最初のロックダウンが宣言され、全土において外出禁止と州間の往来の制限、国防、治安、消防などを除く行政サービスすべてが停止。また、エネルギー等基幹インフラサービス、物流など一部例外を除くすべての経済活動も停止された。ロックダウンは感染の拡大状況を見ながら5月30日までの間に3度に亘り延長が繰り返されたが、5月31日以降は、感染が集中するエリア (Containment Zone) に限りロックダウンを継続している。その他のエリアでは経済活動制限を段階的に解除しはじめている。ただし、教育機関の閉鎖、国際旅客便の運航停止、メトロ運航停止、夜間外出制限などは、依然解除対象から外されている。

 ロックダウン中の様子は、外出禁止を取り締まる警察権力による横暴とも思える対応が、ネットを通じ国際社会に曝け出されるなど問題もあったが、かなり厳格に運用されたと言っていい。それにも拘わらず新規感染確認数は一貫して右肩上がりを続けている。7月に入ってから新規感染者数は日に2万人を超えており、収束の気配はまだ見えない。ロックダウンの軟化に合わせ感染者が急拡大していることから、政府決定を「時期尚早」とする国民の声もあるが、メディアに登場する財界の声は異口同音に「これ以上のロックダウンはパンデミック以上にインド経済を痛めつける」とするものだ。ゾーンニングした上での段階的解除は不可避の判断と見るべきだろう。

経済対策の発表に合わせ国民を鼓舞

 ロックダウン中に財務省が国民に提示した経済対策は2度に亘った。すなわち3月26日発表の1.7兆ルピー (約2兆5,500万円) と5月12日の20兆ルピー (約28兆円) だ。第1弾では貧困層対策のほか医療従事者支援や零細・中小事業者向け支援。第2弾では中小企業の定義を見直し、より広範な事業者の支援を打ち出した。また出稼ぎ労働者、露天商、農家など、よりミクロのレベルでの支援が厚く盛り込まれた。そしてモディ首相は第2弾の経済対策発表に合わせ「自立したインド (Self-reliant India)」という新たなスローガンを、新型コロナのパンデミックに不安を募らす国民に向けて発表した。

 「自立したインド」は (1) 飛躍的発展の源となる「経済」、 (2) 近代インドを形作る「インフラ」、 (3) 新しい技術により構築された「システム」、 (4) 自立したインドのエネルギーの源泉となる「人口」、 (5) 「需要」とそれを支えるサプライチェーン。という5本の柱から定義付けられる。モディ首相は「インドの自立は自己中心的なものではなく、自立することで世界に貢献すること」としている。国際協調をとりながらインド固有の技術を進化させ発展の礎にするとのメッセージだ。まさに新型コロナ禍が遠ざかった後のインドが寄って立つべきことがここに凝縮していると言えよう。

「自立したインド」を支える卓越した技術

 今回の経済対策では「自立したインド」を象徴するシステムが活用された。それは国民識別番号 (ID番号) 「アダール (Aadhaar) 」だ。インドでは1999年のカシミールにおけるパキスタンとの軍事衝突から、国境周辺に居住する国民の把握が求められるようになった。これを契機に国民IDの必要性が持ち上がり、以降複数の政権交代を経ながらも取り組みは続いた。2020年1月時点でアダールの登録数 (ID発行数) は12.5億件であり、国民の94.5%が既にID番号を所持している。加えてアダールは、2014年に導入した国民皆銀行口座プロジェクトとも後述する「インディア・スタック」を介し紐づいている。つまり政府はなんらかの資金的支援を国民に対し実施する際、国民の銀行口座に直接アクセスすることができるようになっている。こうした機能とその規模の大きさからアダールは世界最大の生態認証IDプラットフォームとして注目されている。

 モディ首相は就任後いくつかの野心的なスローガンを掲げたがその中の一つに「デジタル・インディア」がある。 (1) 高速インターネットの敷設などのインフラ整備、 (2) 国民への効率的デジタル行政サービスの提供、 (3) 国民のデジタル知識の向上とその活用の促進を目的とするものである。モディ首相は、公共財としてのAPI(Application Programming Interface)集積体となる「インディア・スタック (India Stack) 」を基幹プラットフォームとし、アダールをその中核APIに据えた。

 「インディア・スタック」はその機能として、ID認証、キャッシュレス、デジタル行政サービス、デジタル診察などヘルスケア、直接送金システム、ドローン運航管理システムなど様々なレイヤーを備えている。そして「インディア・スタック」のシステムを海外展開してゆくために、「MOSIP」 (Modular and Open Source Identity Platform) というオープンアーキテクチャがすでに開発されており、今後同様の社会制度基盤を立ち上げようとするアフリカなどの新興市場国での活用が期待されている。

新型コロナ禍を通じて見えた課題

 一方、新型コロナ禍で生じた「出稼ぎ労働者」への支援ではアダールが上手く機能しない場面もあった。インドの州間移動人口の正確な統計はない。世界経済フォーラムの推計では約1億3,900万人としているが、民間のシンクタンクは2020年の州間移民総数を約6,500万人、うち期間工や非正規部門の労働力が約33% (約2,150万人) を占めると見積もっている。インド経済監視センター (CMEI) の統計では3月平均の失業率が8.75%であったのに対して、4月は23.52%、5月は23.48%で特に都市部では25.79%まで悪化した (その後ロックダウンの段階的解除で7月の最新数値は9.06%まで回復) 。ロックダウンにより出稼ぎ労働者の多くが失職し、収入を絶たれたと考えられる。その窮状はメディアでも大きく報じられた。

 政府は5月12日の経済対策で移民に対し穀物の無料支給を発表したが、支給物資を受け取るには「配給カード」の提示が必要だ。出稼ぎ労働者の多くは就労地で利用可能な配給カードを持っておらず受け取ることが出来ない。この場合、アダールを提示できれば良いのだか、アダールそのものを所持していないか紛失していて配給を得られず、食い詰めた労働者たちは徒歩や自転車などで、1,000キロ以上の道のりを自分の家を目指し動きだした。移動中には外出禁止令を侵したことで警察に捕らえられる者もあれば、道中、交通事故や餓えで落命する者もでた。

 政府は2021年3月末までに配給カードを全国共通とし、自身のIDが登録された場所以外でも配給物資を受けとることができるようにするというが、今回の新型コロナ対策としては遅きに失した。さらには配給カードがアダールと適切に連動していれば、このような状況に至らない者がいたかも知れない。何より残念なことは、労働者自身がアダールの有用性や重要性を認識しておらず、IDカードの紛失や銀行口座を開設していないために政府の資金支援を受けることが出来ないケースがあったことだ。新しい技術によるシステムも、まずは国民の隅々までその有用性を理解させることが重要で、新型コロナ禍からの教訓になった。

印中間の不協和は「自立」にどう作用する

 「自立したインド」には、飛躍的な「経済」の発展と、それを支える「需要」、またその需要を支えるサプライチェーンの発展が必要とされる。例えば新型コロナにより地元に戻った出稼ぎ労働者が、サプライチェーンの発達で地域のプレゼンスが向上すれば地元でも就労できるようになるという。モディ首相は2014年「メイク・イン・インディア」というスローガンを立ち上げ、自ら各国で投資誘致のトップセールスに努め、各州政府や産業団体もこれに追随している。商工省によれば直近2019/2020年度の外国投資受け入れ額は499億7,000万ドルと前年の443億6,000万ドルから13%増加した。

 しかし今般の新型コロナで状況は一変した。政府は、「インド企業の日和見的買収を抑制するため」の外国直接投資政策の改訂 (4月18日付け) を発表。国境を接する全ての国からの投資に政府の審査を要するようになった。その中でもっともインパクトの強い国は中国だ。現地報道では、中国からの投資に関してはインド内務省が警戒感を強めていたと伝えており、欧米豪などが中国からの投資監視を強化する中、むしろ新型コロナを口実にこれに追随した感が強い。

 このような中、5月初めから続いていたラダック周辺の印中国境での両軍の小競り合いが、6月15日、45年振りに死者を伴う大規模な衝突に発展した。インド国内における反中感情は一気に高まり、中国製品ボイコットが始まった。インド国鉄や国営通信会社、ムンバイ市のメトロなど、中国との契約が進んでいた案件は軒並み解除され、6月30日には「インドの主権、セキュリティに対する脅威」を理由に59の中国のアプリ利用禁止も発表された。各港湾では中国からの輸入品に対するインド税関の恣意的とも取られる通関の遅延が始まるなど、対中関係は近年に類を見ない規模に悪化している。

 ハイレベル協議により、国境における緊張のさらなる悪化への懸念は遠のいた。しかし、ネパールやブータンなど、インドと関わりが深い国への中国の拡張主義的な行動はエスカレートしており、反中感情は暫く続きそうだ。ただ、医薬品や携帯電話など中国からの原材料輸入に大きく依存している分野では、代替品を容易に得ることは困難だ。「結果的に割を食うのはインド側」との見方が産業界にはある。中国からの輸入依存を解消することが「自立したインド」と捉えることは如何にも短絡であるし、まして新型コロナの先にあるものが保護主義や他国との不協和であってはならない。

おわりに

 インドの主要紙に掲載された「インドが自立する方法」という寄稿が目についた。独立以降、公企業を中心としたインドの産業構造の旧弊によりインドは第三次産業革命でも、また欧米中が先行する先進的な科学技術の分野でもバスに乗り遅れている」という。そして「長年沁みついた政府系企業の研究開発 (R&D) への鈍感と、外資から安易に技術を受けて自らの努力を怠った民間企業の不作為が生んだ結果だ」と断じている。

 一方で、電気自動車、太陽電池とモジュール、無人機を含む航空機、AI、ロボット工学、バイオテクノロジー/製薬などの分野はまだインドの手の届くところにあり、これを「自立したインド」に取り込むためには、基礎研究を含むR&D投資を政府系企業や研究機関、大学が大幅にスケールアップする必要があるとしている。加えて、スキル開発を含む、教育への公共支出を大幅に引き上げる必要もある。「質の高い公教育と確立された公衆衛生を抜きに自立を達成した国は存在しない。」と述べている。新たなことを追求することに合わせ旧弊の払拭が新型コロナ禍の先のインドには不可欠と言えそうだ。

注:本稿で示した見解はすべて筆者個人の見解であり、筆者の所属する組織の見解を示すものではない。


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