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教育におけるリベラル・アーツの再考 | 日中管理学院アジア交流塾塾長 元慶応義塾大学及び日本大学教授 井出 亜夫【配信日:2014/07/31 No.0233-0936】

配信日:2014年7月31日

教育におけるリベラル・アーツの再考

日中管理学院アジア交流塾塾長 元慶応義塾大学及び日本大学教授
井出 亜夫


 日本経済社会の在り方を問う中で教育問題が話題になっている。本件は、近現代日本における教育が、テクノクラート養成を主眼として進められてきたところに根本問題があると考えられる。グローバル化が進む今日、オペレーションの効率性を超えた戦略的発想と展開が必要とされており、このためには教育の場と実社会におけるリベラル・アーツへの敬意・重視が不可欠である。



(はじめに)
 日本経済社会のパラダイム・シフトの中で教育問題が話題になっている。いじめ問題の多発化や日本人の内向き志向、画一教育の弊害、英語教育の早期導入、日本人の学力低下・日本企業の国際競争力の低下といった事象が、問題提起の発端といえよう。 
 本件は、明治維新、戦後発展を超えて、グローバル社会に身を置く現在の日本社会の下で、近代日本における教育制度とその帰結を回顧し、将来の日本人像に係る教育の在り方という視座で議論・考察されるべき問題である。

(岩倉使節団による欧米教育制度観察と近代教育制度の導入)
 日本近代の制度設計に当って、欧米に富強の所以を求めた岩倉使節団は、欧米諸国の近代化をもたらした教育制度に関心を寄せたのは当然であり、使節団は、先進諸国の教育制度の調査・比較に意を注いでいる。江戸時代、社会の発展とともに庶民対象の寺子屋や武士対象の藩校の全国的展開、長崎を通ずる蘭学の普及もあったが、明治新政府は、その系譜とは無関係に維新早々、近代教育制度の導入に走る。村に無学の家なく、家に無学の者なきを期した学制、教育令、学校令は、日本人の教育のレベルアップを図る上で大きな実績を遺した。しかし、明治国家体制の確立とともに進む教育の中央集権化は、教育勅語へと展開され、これが、結果として、日本を大東亜戦争、第二次大戦の破局に繋がる役割と無縁ではなかった。
 ここでは、聖書を持たない日本社会において、ダーウィン進化論を批判・否定する議論は起こらず、総じて自然科学的知見を伸ばすことには寄与したが、人文科学、社会科学を巡る客観性の追求は、これが天皇制国家体制否定に連なる場合には徹底的に排除された。後に「神道は祭典の古俗」と論じた米欧回覧実記の編纂者久米邦武が、皮肉にも新制東京帝国大学を追われる事件は、その象徴的事件であった。

(教育基本法制定)
 戦後は、戦前の教育、教育勅語が果たしは歴史的反省から、新制日本国憲法の精神に則り、教育基本法(1947年制定2006年改正)の下で、教育の機会均等、個人の尊厳、学問の普遍的自由は制度上確保され、以下の基本的教育目的・理念が謳われている。民主的かつ文化的国家の建設、世界平和と人類の福祉向上、公共精神の尊重、豊かな人間性と創造性、伝統の継承と新しい文化の創造。

(テクノクラート養成重視の日本近代教育)
 しかし、明治以降今日にいたる日本の教育は、近代化、殖産興業、戦後復興・経済発展に貢献するテクノクラート養成に主眼が置かれ、これに直接関与しないリベラル・アーツ軽視に走ったことが大きな特色であり、これは、今日わが国教育及びその延長にある日本社会の根幹問題となっていることを指摘したい。
 文科系では法学、経済学といった実務に係る専攻分野が社会的に重視され、哲学、倫理学、歴史、文学といった分野は、日本近代化や、戦後の経済成長に直接役立たない学問として、社会的に軽視されてきた。同じく、理科系分野においても、理学(サイエンス)よりも工学(テクノロジー)、医学が社会的に重視され、それぞれの分野においても、その根底に密接に関わる哲学、倫理、歴史的側面への認識が乏しかった。
 例えば、法学教育では、憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の六法が中心であり、これらの課目のベースとなるべき法哲学、法社会学、法制史は重要科目として認識されていない。経済学においては、明治維新の歴史的性格を巡る日本資本主義論争が展開された当時、あるいは経世済民の学を標ぼうしていた当時は、人間と社会・制度の諸関係を意識した学問であったが、人間を純粋経済人として純化し、効用・効率と成長を旨とする近代経済学を主流とする体系は、リベラル・アーツの認識を欠いた学問体系に堕してしまった。尤もこの傾向は、経済学における世界的傾向でもあり、アマルティア・センはこれを合理的愚か者像の分析として皮肉っている。
 ルース・ベネディクト著「菊と刀」は、文化人類学の成果として、米国の対日政策形成に不可欠な一翼を担ったが、わが国においてこうした事例を見出すことは出来ない。また、欧米企業経営者、政治家等実務家の中に、リベラル・アーツやサイエンス専攻の著名人を見出すことは容易であるが、わが国では、極めて例外的である。
 一方、総じて学問の細分化は、一方においてインターディシプルナリー(学際的)な発想、手法の必要性を強調するが、現実は掛け声に終わって、全体均衡の視野に欠けた部分均衡に陥っている。その具体的姿は、大学入学当初からの文系理系の分離とその縦割り的延長に現れ、文理融合の工夫が求められている。
 こうした学校教育、大学教育の影響、学問の専門化は、実社会に如実に反映され、その象徴的現象として、日本社会においては、オペレーションの効率性においては優れていてもこれを超えた戦略的発想を欠いた組織形成・運営の不得手さに現れている。マイケル・ポーター(ハーバード・ビジネススクール教授)は、今日の日本企業の経営に関し同様な指摘をしている。
 かつてジャパン・アズ・NO1といわれた日本の経営は、グローバル経済社会が進展する中で、普遍的メッセージを提示してきたとは言い難いし、また、世界に係る各界の指導者、特に政治家、企業家の発信力の乏しいスピーチは、こうしたリベラル・アーツ軽視の教育、社会風潮と深くかかわっているものといえよう。

(グローバル社会における世界市民としての素養)
 グローバル社会の進展、地球環境問題の深刻化、世界的貧富の格差の拡大は、改めて、「人間の共生」、「相互依存性」の重要さを私たちに強く訴えている。1993年に制定されたわが国環境基本法は、環境の恩恵の享受、将来世代への継承、国際協力による解決という理念の下に持続的発展社会の形成を謳っている。ここにおける教育の役割は極めて大きく、私たちには、こうした理念を担う世界市民としての人材の育成・輩出を単に学校教育の場だけでなく、社会教育、社会の実践の場で如何に図っていくかが、問われている。そのためには、「全体と部分の関係」「歴史的相対性」を理解・認識するうえで、専門領域を超えた、あるいは専門領域の根底にあるリベラル・アーツ重視の教育を視座の中にしっかりと入れていかなければならない。
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