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日本近現代史から見た歴史認識と日本の役割 | 機械振興協会経済研究所運営委委員長 前日本大学大学院教授 井出 亜夫【配信日:2013/06/28 No.0220-0893】

配信日:2013年6月28日

日本近現代史から見た歴史認識と日本の役割

機械振興協会経済研究所運営委員長
前日本大学大学院教授
井出 亜夫


 今日私たちは、第三の開国、新しいパラダイムの形成に直面している。未完の明治維新、戦後発展の普遍性と限界を明確にし、グローバル市民社会の形成に如何に取組むかが現代に生きる私たちに強く求められている。
 1795年カントが唱えた「世界永遠平和」の歩みは遅いが、日本国憲法を有する私たちはその先端を担っていることを銘記したうえで、わが国近代化における成功と失敗の経験を世界、取分け発展途上国と共有し、世界史に新しい動きをつくる努力をしていかなければならない。


(はじめに)
 今日、私たちは、明治維新、戦後改革・発展を超えて、第三の開国、新しいパラダイムの模索・形成の過程にある。この機にあたって私たちは、「五箇条のご誓文」は何故に「フランス人権宣言」のように世界史に発信する存在になりえなかったかを回顧するとともに「坂の上の雲」(近代国家の建設)、「官僚たちの夏」(経済的豊かさの追求)が目指した近現代社会を振り返り、将来展望を切り拓いていかなければならない。
 1795年カントは「世界永遠平和」の中で、常備軍の廃止、諸国間の共和的市民体制の確立、自由な諸国間の連合制度に基礎をおいた国際平和を唱えた。それから200年後の今日、国連、国際司法裁判所等は、未だその機能を十分に果たしているとは言い難い。しかし、平和の構築と人間の安全保障問題の取上げ等その歩みは遅いが、世界は、カントのいう方向に向かって進んでおり、日本国憲法を有する私たちはその先端を担っていることを銘記すべきであろう。明治近代化の過程で、特にアジアとの関係において大きな外交的失敗の経験をへて築かれた平和主義日本は、徹底的な対話路線を進めることによって世界史に新しい動きをつくる努力をいなければならない。

(岩倉使節団と米欧回覧実記)
 廃藩置県の後(明治4年 1871年)米欧12か国へ派遣された岩倉使節団は、欧米先進諸国の富強の所以、わが国近代国家形成の在り方を探った。これは、明治維新の革新性を示す世界史にも類例を見ないイヴェントであった。しかし、現実の明治国家体制の設計とその展開は、使節団の多様な観察、実記に記されたキーノートとは異なり、国際協調に沿った近代市民社会形成を順調に発展させるものとはならなかった。
 一方で封建社会の打破、近代教育システムの導入、殖産興業、近代的インフラ整備等の面において輝かしい実績を残したが、使節団が帰国の途次インドやシンガポール、中国において垣間見た欧州帝国主義の下でのアジア人支配の現実を打破する方向に向かわず、逆にこれに追随し、アジア支配に向かった対外戦略は、その歴史的負の遺産を払拭できずに現在に至っている。
 今日、中国、韓国との間に見られる歴史認識の相違を深く見極めるとともに、戦後日本が到達した村山談話の意義をもう一度再確認する必要があろう。

(民権の拡張より民衆の支配)
 五箇条のご誓文による「広く会議を興し、万機公論に付す」の大命題は、自由民権運動の開花には至らず、新聞条例、保安条例、さらには大逆事件から治安維持法に至る言論・政治活動の抑圧の過程を経て、日本国憲法の制定に至って漸く言論・表現・政治的自由が獲得された。
 村に無学の家なく、家に無学の者無きを期した教育令、学校令は、教育の普及として成果を生んだが、社会科学を巡る客観性の探求については、実記の記録者久米邦武が「神道は祭典の古俗」と論じて新生東京大学を追放された事実に皮肉にも象徴され、天皇制国家体制に仕える教育勅語に展開されてしまった。

(新たな特権と官尊民卑)
 福沢諭吉は、明治維新の革新性を一方で評価しつつも、幕藩体制下の身分制度、特権廃止を目指した維新が、明治官僚制・華族制度として新たな特権を制度化した官尊民卑の制度・しきたりを批判し、これに迎合しない市民社会の建設を唱え、国民の独立自尊を訴えた。戦後憲法は、公務員を全体の奉仕者として位置付け、近代民主主義下の官僚制に進化したが、官主導に象徴される実態は社会の底流において存続し、漸く、行政手続法、情報公開法、公務員倫理法等の制定によって、新しい公共へのパラダイム・シフトが進んでいる。
 一行が訪れたスエーデンにおいては、すでに19世紀初頭において、行政に対するオンブヅマン制度の成立がみられたが、今日新しい公共としての行政システムと公務員制度の工夫・構築が求められている。
 また、明治憲法下において、殖産興業の主体たる営利法人の設立は商法の制定による準則主義で可能となったが、公益に係る非営利法人の設立は、1898年の民法制定以来主務大臣の設立許可制(禁止の解除)と管理・監督下におかれ、準則主義による公益非営利法人の設立は1998年NPO(特定非営利活動促進法)の制定に待たなければなかった。

(明治憲法と戦後憲法における政治)
 岩倉使節団は、共和制、立憲君主制国家の実態にも触れ、明治国家はより民主的政治体制を形成する可能性(植木枝盛の憲法草案を始め、使節団同行留学生中江兆民の民権思想等よる民主的性格の憲法草案等)もあったが、最終的には極東の一国における天皇制という枠に留まってしまった。戦後憲法を押付け憲法として弾劾し、自主憲法制定を唱える者は、こうした未完の明治維新の歴史と明治憲法下でアジア支配、戦争に走った失敗の教訓を学び取らなければならない。
 明治憲法の下、議会・立法府は天皇制政府の協賛の役割として、著しくその権限を制限された。大正デモクラシー、天皇機関説、普通選挙法の制定等によって立憲君主制下の議会、政党政治の萌芽も見られたが、国権の最高機関としての国会、主権在民は、未完の明治維新の結果として戦後憲法によって成立したものである。
 一方、今日、わが国政党政治の未成熟さを示す事例を幾多垣間見るが、19世紀英国の啓蒙思想家サミュエル・スマイルズが言う「一国の政治のレベルは国民のレベルが決める」は至極名言として私たちに強く訴えられている。

(強兵の先行と対外戦略の失敗)
 明治維新は、欧米富強の所以を訪ね、鎖国日本の近代化によって独立国家日本を目指したものだったが、畢竟、富国よりも強兵に走ったところに大きな蹉跌があった。岩倉使節団の一員山田顕義(日本大学・国学院大学の創設者)は、山県有朋主導下の徴兵令に対し、兵は凶器であるとして市民社会におけるバランスのとれた軍のあり方を建白書として提言している。強兵に走った明治国家は、幸運にも勝利した日露戦争を境に、日韓併合、対華21か条の要求、日中戦争、第二次大戦への破局を走ってしまう。朝河貫一博士は、「日本の禍機」において、日露戦争後の日本の対外戦略を憂え、遅れて帝国主義の途を走る日本は世界史の正しい道を踏み外しているとして厳しく批判する。多数の日本人のサポートをも得て辛亥革命を興した孫文は、こうした日本の対外政策に対し、1924年神戸において、「日本は欧米列強の走狗となり覇道を進むのか、東洋の王道を進むのか、それは日本人自身が決めることだ」と述べ日本を去ったが、残念ながらわが国はその前者の道をひた走ってしまったのである。朝鮮併合、満州進出を批判する石橋湛山は小日本主義を唱え、また、日露戦争を称えつつも、第1次世界大戦を現実に観察し、近代戦の悲惨さを目撃した水野広徳は、日本の軍国化に反対しあらゆる表現の自由を奪われたとき「反逆児知己を100年の後に得る」を残して終戦直後に世を去るが、戦後憲法は、歴史の教訓とこうした先遣の思想・行動のもとに世界史を先導するものとして誕生したものと考えるべきである。
 1795年カントは「世界永遠平和」の中で、常備軍の廃止、諸国間の共和的市民体制の確立、自由な諸国間の連合制度に基礎をおいた国際平和を唱えた。それから200年後の今日、国連、国際司法裁判所等は、未だその機能を十分に果たしているとは言い難い。しかし、平和の構築と人間の安全保障問題の取上げ等その歩みは遅いが、世界は、カントのいう方向に向かって進んでおり、日本国憲法を有する私たちはその先端を担っていることを銘記すべきであろう。明治近代化において特にアジアとの関係において大きな外交的失敗の経験をへて築かれた平和主義日本は、徹底的な対話路線を進めることによって世界史に新しい動きをつくる努力をしていかなければならない。

(第三の開国とグローバル市民社会の形成)
 明治維新、戦後改革・発展に続き、私たちは、いわば第三の開国、パラダイム・シフトに直面している。未完の明治維新、戦後発展の普遍性と限界を明確にし、グローバル市民社会の形成に如何取り組むかが現代に生きる私たちに強く求められている。
 岩倉使節団が、米欧を訪れ、産業革命と近代国民国家の形成に驚嘆したとき、彼らは一方においてこの遅れは40年、50年の遅れではないかと自らを鞭打った。しかし、夏目漱石は、「現代日本の開花」において、欧米諸国の近代化は100年、200年かけて内発的に発展したのに対し、外生的発展を辿るわが国の場合はこれを30年、40年の間に行っている、この動きをやめることは出来ないが、これがもたらす社会的ひずみ、ストレスを十分に理解しなければならないとして明治社会の危うさを警告している。また、戦後経済の発展プロセスにおいても1957年経済白書は、日本経済は、一方に先進国と他方に後進国の二重構造の中にあると指摘し、二重構造の解消を国民的課題として進んできた。
 今日、グローバル社会の進展の中で、BRICSに代表される新興経済諸国は、世界経済牽引の成長路線を歩み始めたが、古い課題が未解決の中で、新しい課題に直面している。日本近代が置かれた世界史の中で、私たちは様々な経験を経てきた。その成功と失敗、工夫と克服、不作為の経験を世界、就中発展途上国と共有し、市場経済至上主義を克服し持続的発展を先導することが世界史における日本の役割ということが出来るのではないだろうか。
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