(8) 西側価値観がGゼロの試練を乗り越えるには
掲載日:2022年6月17日
(公財)日本国際問題研究所 客員研究員
津上 俊哉
ロシアのウクライナ侵攻は世界中に大きな衝撃を与えた。これほど露骨な侵略戦争は20世紀で途絶えた、と誰もが思っていたのだ。現実はそうではなかったと知って、人々は歴史が逆戻りするような感覚に襲われた。
人類社会は進歩しているようで、その実歴史上現れたパターンを繰り返しているのではないか…米中対立を見ながらそんな思いを抱いてきた筆者は、ロシアのウクライナ侵攻を見て、この思いをいっそう深くしている。世界は歴史の大きな変わり目にさしかかっているのではないか…本稿ではそんな感想を綴りたいと思う。
デカップル化が進行する世界経済
ロシアのウクライナ侵攻に対して、米・欧・日の西側諸国は前例のない経済制裁を課した。輸出入の制限措置や中央銀行の在外資産を凍結する措置は、ある意味でロシアのWTOメンバーやIMFメンバーとしての地位を剥奪するに等しい。そして、ロシア制裁に限らず、過去四半世紀の間に進んだグローバリゼーションの歩みが逆戻りするような出来事は、最近いろいろ起きている。
昔のGATT体制には旧共産圏が加わっていなかった。それが「グローバル秩序」になったのは90年に冷戦が終結し、94年に設立されたWTOが旧共産圏を包摂するようになってからのことだ。併行して、物流・情報技術やインフラの発達、通商交渉による貿易障壁の低下により途上国経済の世界経済への統合も加速した。この結果、時間とコストを大幅に節約できる分業ネットワークが世界中に大きく枝葉を伸ばした。
しかし振り返ると、効率を最優先に築かれたグローバル・サプライチェーンは、喩えてみれば、幸運に恵まれた農家のようなものだった。・・・日照も降水量もじゅうぶん、台風も虫害も何年も襲って来ない、種子や肥料は注文すれば直ぐ届けられ、近隣の農家とも良い近所付き合いができている・・・
一方、ロシアのウクライナ侵攻だけでなく、過去数年に起きた米中対立、コロナ・パンデミックの襲来といった出来ごとを上の喩えに倣って表せば、…天候は不順になり、風水害や虫害も襲ってくる、肥料は工場の事故のせいで秋まで入荷しないと言われ、仲良しだった隣の農家は、実はうちの新品種を盗もうとしていることが判明した・・・ようなものだ。
世界経済の豊作もグローバル・サプライチェーンの繁栄も例外的な幸運に恵まれたものだとするなら、運勢の移り変わりにつれてグローバル・サプライチェーンが世界に拡げた枝ぶりも縮めざるを得なくなる。こうしてグローバリゼーションの巻き戻しが進んでいるのが昨今だと言えよう。
喩え話から現実に話を戻そう。米中対立が激しくなり、経済安全保障の重要性が叫ばれるようになってから、米中の通商関係はハイテク分野、人権関連を中心にルールの上書きが進行しており、これまでの自由貿易ルールの適用範囲は、あたかも北極海の氷のように縮小しつつある。
超党派の諮問・提言機関として米国の対中規制強化に大きな役割を果たしてきた米中経済・安全保障調査委員会(USCC)が昨年11月に出した提言は、さらに金融分野における対中規制や中国企業の在米上場の規制を強化することを内容としていた。
中国も、2年前には「サプライ・チェーンを武器のように使うことには断固反対する」立場だったが(習近平主席)、その後の米国の規制強化に「啓発」されたのか、最近は米国に倣うように新しい法律を次々と制定している。中国の「主権、安全、発展の利益を害する外国政府や組織の行為に対して必要な報復措置を講じることも法制化され、データセキュリティを理由に外国への情報提供が制限されるようになった。
こうして世界貿易のほぼ1/4を占める米中両国を起点として、世界経済のデカップル化が進み始めた。さらに突然襲ってきたコロナ・パンデミックによって、各国でマスクを始めとする医療資材の欠乏が深刻化したことで、重要物資の安定調達のために生産を国内に回帰させる必要が叫ばれるようになり、この点でもグローバリゼーションの巻き戻しが加速する気配である。
ウクライナに侵攻したロシアに対して西側諸国が発動した厳しい制裁措置も長く尾を引きそうだ。プーチン政権が早期に崩壊して西側に親和的な新政権が誕生するなら話は別だが、ロシア国内のムードからして、その可能性は低いと思われるからだ。となれば、エネルギーや一次産品を中心に、ロシアと西側の経済的繋がりを解消させる力が働くだろう。
加えて、戦争に伴う黒海海運の混乱は、ロシア・ウクライナ両国が大きな世界シェアを占める小麦や肥料の供給に深刻な影響を及ぼして、中東やアフリカに食糧危機をもたらす恐れも取り沙汰されている。その意味において、ウクライナ侵攻を機に、世界経済のデカップル化は、さらに階段を一段上った。
米国一極主導の国際秩序の耐用年数が尽きつつある
前述したとおり、自由貿易体制が「グローバル秩序」になったのは90年に冷戦が終結し、94年に設立されたWTOが旧共産圏を包摂するようになってからのことだが、それは米国一極が主導する冷戦後の国際秩序、言葉を換えれば米国の覇権を抜きにしては成立しにくい仕組みだった。
中国も20年前には「世界秩序への合流(「接軌(ジエグィ)」)を標榜していた。米国も「経済発展につれて中国の政治体制も民主化されていく」未来を信じていた。だいいち、米中両国の間には圧倒的な力の差があった。しかし、その後中国が飛躍的な経済発展を遂げ、自信を強めるにつれて風向きが変わった。中国では2008年のリーマン・ショック、2016年のブレグジットや大統領選をめぐる米国の内政混乱をみて、西側の価値観や体制を見習おうとする気持ちを失い、「中国には中国の国情がある」と主張することが増えた。最近は「米国が決めたグローバル・ルールには従わない」とすら、公言するようになった。米国はこうして自己主張を強める中国の姿勢に違和感を抱き、やがて国力において中国に追い付かれ、覇権を脅かされる不安にもかられるようになった。
こうして信頼が損なわれ、心理的余裕も失われてくると、中国との間で従来のような自由貿易体制を維持することが難しくなってくる。「経済安全保障」論が勢いを増し、とくに対中強硬姿勢が際立つ米国議会などでは「中国を自由な貿易や資本の移動の対象から外す」ことが公然と語られるようになってきた。
改めて考えてみると、自由貿易体制というのは、ひっきょう信頼できる相手との間でないと成立し難い仕組みなのではないか。
米国は自由貿易体制に距離を置くだけでなく「世界の警察官」役からも身を退きつつある。バイデン大統領は就任早々『同盟国でないウクライナに米軍が出て行くことはない』と表明した。背後には「世界の揉めごとに巻き込まれるのはもうたくさんだ」という米国の広汎な民意があり、バイデン大統領が個人の信条だけでそう言った訳ではない。そう見たプーチン大統領は「世界の警察官はもはやいない」と信じてウクライナ侵攻を決断したのだろう。
中国もロシアも米国の覇権の衰退を歓迎している。「多極化した世界は、今より民主的で公平なはずだ」と考えているのだ。だが、それは願望に過ぎない。「米国主導の国際秩序」は、たしかに幾多の不合理を抱えているが、一方で不安定な世界がバラバラにならないように樽を締める箍(たが)のような役割を果たしてきた。米国に対抗する姿勢を強める中露両国、自由貿易の退潮、ウクライナ戦争などは、みなこの箍が緩んで、樽が解体しかかっていることを暗示している。米国の国力の相対的低下、何よりも米国内の分断深刻化により、善し悪しは別に、この樽は耐用年数が尽きつつあるようだ。
見えてきた「Gゼロ」の素顔
我々は今、大きな歴史の変わり目に立ち会っているのだろう。米主導の国際秩序が退潮を迎えていることは「Gゼロ」という言葉で何年も前から予言されてきたが、従来はっきり見えなかったその面相が次第に見えてきたように思う。
自由貿易が輝きを失い、自国優先の保護貿易と政府介入の増大に取って代わられる現象は、大恐慌後の1930年代の世界で起きたことであり、いまの風潮は、90年前を彷彿とさせる。筆者は数ヶ月前まで「だからと言って、今すぐ第三次世界大戦を心配する必要はない」と思っていたが、そうしたらロシアがウクライナに侵攻して、戦術核兵器の使用すら排除しない姿勢を示すようになった。
これからの世界を待つ未来は、今まで言わば空気のように当たり前に受け止めてきた秩序が失われていく苦難に満ちた未来だ。経済一つ取っても、デカップル化が進むことによって、企業経営に喩えると「世界大の市場、需要を想定していたら、市場は分断され縮小する」「グローバル・サプライチェーンを再構築して生産を第三国に移転したり、本国回帰させたりすればコストアップは避けられない」という風だ。売上予測が落ちて経費が嵩めば、企業価値は当然下方修正される・・・そんな影響が個々の企業だけでなく、世界大でマクロに及ぶ。
こうして「経済安全保障」を重視すれば、世界経済の成長を阻害することは避けられない。「それは困る、イヤだ」と叫んだところで、世界史の大周期に従って起きる変化なので、止めることはできそうもない。冒頭の喩えで記したように、過去20年が出来過ぎだったのだ。好天は何時までも続くものではない。
過去野放図にばらまかれてきたグローバル・マネーがインフレの回帰によって収縮すれば、世界経済はさらに減速する。通貨危機に陥る新興国も出てくるだろう。そうなれば世界の各地で政情不安や国際紛争が起きて、経済成長に対するいっそうの重しになるだろう。
修正主義国家、とくに中国は、これまで信じてきた「今より民主的で公平な多極化世界」が幻想に過ぎなかったことを悟るだろう。中国がこの20年間享受してきた「(発展のための)戦略的機遇(チャンス)の時期」は良くも悪くも、米国の覇権によって支えられてきた側面があったからだ。
西側諸国が結束して国際秩序の急速な瓦解を防ぐことが重要
米国覇権が後退し世界が不安定化していくのを嘆いてばかりいても仕方がない。米国の力が相対的に落ちて内向きになるのなら、残る西側諸国が力を振り絞り、米国を励まして、失われようとする秩序を維持する努力をしなければならない。
その意味で、ロシアのウクライナ侵攻に対して、米・欧・日の西側諸国が一致結束して反対、対抗する姿勢を採れたことは、バッドニュース続きの世界にあって、数少ないグッドニュースだった。また、西側に一致結束した姿勢を採らせたきっかけは、ウクライナが決然と抵抗して善戦したことだったのを忘れてはならない。
ロシアのウクライナ侵攻は、中国も台湾に武力侵攻するのではないかという問題にも影響を与えた。ロシアがウクライナで無血に近い電撃的勝利を収めると予想していた中国にとって、ウクライナの抵抗とそれを支える西側諸国の強力な物的支援は、台湾との関連でたいへん不都合な展開だ。
しかし、「侵略に抵抗すれば、世界が助けてくれる」という教訓を台湾が汲み取って、市民レベルでの抵抗の備えを始められるかどうか…これは純粋に台湾の内政問題だが、未知数だ。
また、万一中国が台湾に侵攻したとき、ロシアと西側の対立に中立、静観の態度を採った東南アジア諸国がNATO諸国のような結束した反対、対抗姿勢を採れるかどうかも未知数だ。両岸問題の平和的解決を願い、武力統一の事態は絶対避けるべきとする日本外交の責任は、この点で大きい。
日本や欧州など米国以外の西側諸国にとって、現行秩序の維持温存を図る努力が欠かせないのは、経済についても同じである。世界経済のブロック化の趨勢を止めることは難しくても、自由貿易秩序の急速な瓦解は防ぐ努力をしなければならない。
西側価値観は人類が歴史の中で試行錯誤を重ねて築き上げてきたものだ。いまは退勢が否めないが、今後混乱のサイクルを経れば、必ず回帰、復活する日が来る。そのことを信じてこれからの我々を待つ試練を乗り越えていかなければならない。
執筆者プロフィール
津上 俊哉(つがみ としや)
(公財)日本国際問題研究所 客員研究員、現代中国研究家
1980年通商産業省入省。在中国日本大使館経済部参事官、通商政策局北東アジア課長、経済産業研究所上席研究員などを歴任。2018年より現職。
「中国台頭 日本は何をなすべきか」(日本経済新聞社/2003年)でサントリー学芸賞。近著に「米中経済戦争の内実を読み解く」(PHP新書/2017年)など。
(公財)日本国際問題研究所 客員研究員
津上 俊哉
ロシアのウクライナ侵攻は世界中に大きな衝撃を与えた。これほど露骨な侵略戦争は20世紀で途絶えた、と誰もが思っていたのだ。現実はそうではなかったと知って、人々は歴史が逆戻りするような感覚に襲われた。
人類社会は進歩しているようで、その実歴史上現れたパターンを繰り返しているのではないか…米中対立を見ながらそんな思いを抱いてきた筆者は、ロシアのウクライナ侵攻を見て、この思いをいっそう深くしている。世界は歴史の大きな変わり目にさしかかっているのではないか…本稿ではそんな感想を綴りたいと思う。
デカップル化が進行する世界経済
ロシアのウクライナ侵攻に対して、米・欧・日の西側諸国は前例のない経済制裁を課した。輸出入の制限措置や中央銀行の在外資産を凍結する措置は、ある意味でロシアのWTOメンバーやIMFメンバーとしての地位を剥奪するに等しい。そして、ロシア制裁に限らず、過去四半世紀の間に進んだグローバリゼーションの歩みが逆戻りするような出来事は、最近いろいろ起きている。
昔のGATT体制には旧共産圏が加わっていなかった。それが「グローバル秩序」になったのは90年に冷戦が終結し、94年に設立されたWTOが旧共産圏を包摂するようになってからのことだ。併行して、物流・情報技術やインフラの発達、通商交渉による貿易障壁の低下により途上国経済の世界経済への統合も加速した。この結果、時間とコストを大幅に節約できる分業ネットワークが世界中に大きく枝葉を伸ばした。
しかし振り返ると、効率を最優先に築かれたグローバル・サプライチェーンは、喩えてみれば、幸運に恵まれた農家のようなものだった。・・・日照も降水量もじゅうぶん、台風も虫害も何年も襲って来ない、種子や肥料は注文すれば直ぐ届けられ、近隣の農家とも良い近所付き合いができている・・・
一方、ロシアのウクライナ侵攻だけでなく、過去数年に起きた米中対立、コロナ・パンデミックの襲来といった出来ごとを上の喩えに倣って表せば、…天候は不順になり、風水害や虫害も襲ってくる、肥料は工場の事故のせいで秋まで入荷しないと言われ、仲良しだった隣の農家は、実はうちの新品種を盗もうとしていることが判明した・・・ようなものだ。
世界経済の豊作もグローバル・サプライチェーンの繁栄も例外的な幸運に恵まれたものだとするなら、運勢の移り変わりにつれてグローバル・サプライチェーンが世界に拡げた枝ぶりも縮めざるを得なくなる。こうしてグローバリゼーションの巻き戻しが進んでいるのが昨今だと言えよう。
喩え話から現実に話を戻そう。米中対立が激しくなり、経済安全保障の重要性が叫ばれるようになってから、米中の通商関係はハイテク分野、人権関連を中心にルールの上書きが進行しており、これまでの自由貿易ルールの適用範囲は、あたかも北極海の氷のように縮小しつつある。
超党派の諮問・提言機関として米国の対中規制強化に大きな役割を果たしてきた米中経済・安全保障調査委員会(USCC)が昨年11月に出した提言は、さらに金融分野における対中規制や中国企業の在米上場の規制を強化することを内容としていた。
中国も、2年前には「サプライ・チェーンを武器のように使うことには断固反対する」立場だったが(習近平主席)、その後の米国の規制強化に「啓発」されたのか、最近は米国に倣うように新しい法律を次々と制定している。中国の「主権、安全、発展の利益を害する外国政府や組織の行為に対して必要な報復措置を講じることも法制化され、データセキュリティを理由に外国への情報提供が制限されるようになった。
こうして世界貿易のほぼ1/4を占める米中両国を起点として、世界経済のデカップル化が進み始めた。さらに突然襲ってきたコロナ・パンデミックによって、各国でマスクを始めとする医療資材の欠乏が深刻化したことで、重要物資の安定調達のために生産を国内に回帰させる必要が叫ばれるようになり、この点でもグローバリゼーションの巻き戻しが加速する気配である。
ウクライナに侵攻したロシアに対して西側諸国が発動した厳しい制裁措置も長く尾を引きそうだ。プーチン政権が早期に崩壊して西側に親和的な新政権が誕生するなら話は別だが、ロシア国内のムードからして、その可能性は低いと思われるからだ。となれば、エネルギーや一次産品を中心に、ロシアと西側の経済的繋がりを解消させる力が働くだろう。
加えて、戦争に伴う黒海海運の混乱は、ロシア・ウクライナ両国が大きな世界シェアを占める小麦や肥料の供給に深刻な影響を及ぼして、中東やアフリカに食糧危機をもたらす恐れも取り沙汰されている。その意味において、ウクライナ侵攻を機に、世界経済のデカップル化は、さらに階段を一段上った。
米国一極主導の国際秩序の耐用年数が尽きつつある
前述したとおり、自由貿易体制が「グローバル秩序」になったのは90年に冷戦が終結し、94年に設立されたWTOが旧共産圏を包摂するようになってからのことだが、それは米国一極が主導する冷戦後の国際秩序、言葉を換えれば米国の覇権を抜きにしては成立しにくい仕組みだった。
中国も20年前には「世界秩序への合流(「接軌(ジエグィ)」)を標榜していた。米国も「経済発展につれて中国の政治体制も民主化されていく」未来を信じていた。だいいち、米中両国の間には圧倒的な力の差があった。しかし、その後中国が飛躍的な経済発展を遂げ、自信を強めるにつれて風向きが変わった。中国では2008年のリーマン・ショック、2016年のブレグジットや大統領選をめぐる米国の内政混乱をみて、西側の価値観や体制を見習おうとする気持ちを失い、「中国には中国の国情がある」と主張することが増えた。最近は「米国が決めたグローバル・ルールには従わない」とすら、公言するようになった。米国はこうして自己主張を強める中国の姿勢に違和感を抱き、やがて国力において中国に追い付かれ、覇権を脅かされる不安にもかられるようになった。
こうして信頼が損なわれ、心理的余裕も失われてくると、中国との間で従来のような自由貿易体制を維持することが難しくなってくる。「経済安全保障」論が勢いを増し、とくに対中強硬姿勢が際立つ米国議会などでは「中国を自由な貿易や資本の移動の対象から外す」ことが公然と語られるようになってきた。
改めて考えてみると、自由貿易体制というのは、ひっきょう信頼できる相手との間でないと成立し難い仕組みなのではないか。
米国は自由貿易体制に距離を置くだけでなく「世界の警察官」役からも身を退きつつある。バイデン大統領は就任早々『同盟国でないウクライナに米軍が出て行くことはない』と表明した。背後には「世界の揉めごとに巻き込まれるのはもうたくさんだ」という米国の広汎な民意があり、バイデン大統領が個人の信条だけでそう言った訳ではない。そう見たプーチン大統領は「世界の警察官はもはやいない」と信じてウクライナ侵攻を決断したのだろう。
中国もロシアも米国の覇権の衰退を歓迎している。「多極化した世界は、今より民主的で公平なはずだ」と考えているのだ。だが、それは願望に過ぎない。「米国主導の国際秩序」は、たしかに幾多の不合理を抱えているが、一方で不安定な世界がバラバラにならないように樽を締める箍(たが)のような役割を果たしてきた。米国に対抗する姿勢を強める中露両国、自由貿易の退潮、ウクライナ戦争などは、みなこの箍が緩んで、樽が解体しかかっていることを暗示している。米国の国力の相対的低下、何よりも米国内の分断深刻化により、善し悪しは別に、この樽は耐用年数が尽きつつあるようだ。
見えてきた「Gゼロ」の素顔
我々は今、大きな歴史の変わり目に立ち会っているのだろう。米主導の国際秩序が退潮を迎えていることは「Gゼロ」という言葉で何年も前から予言されてきたが、従来はっきり見えなかったその面相が次第に見えてきたように思う。
自由貿易が輝きを失い、自国優先の保護貿易と政府介入の増大に取って代わられる現象は、大恐慌後の1930年代の世界で起きたことであり、いまの風潮は、90年前を彷彿とさせる。筆者は数ヶ月前まで「だからと言って、今すぐ第三次世界大戦を心配する必要はない」と思っていたが、そうしたらロシアがウクライナに侵攻して、戦術核兵器の使用すら排除しない姿勢を示すようになった。
これからの世界を待つ未来は、今まで言わば空気のように当たり前に受け止めてきた秩序が失われていく苦難に満ちた未来だ。経済一つ取っても、デカップル化が進むことによって、企業経営に喩えると「世界大の市場、需要を想定していたら、市場は分断され縮小する」「グローバル・サプライチェーンを再構築して生産を第三国に移転したり、本国回帰させたりすればコストアップは避けられない」という風だ。売上予測が落ちて経費が嵩めば、企業価値は当然下方修正される・・・そんな影響が個々の企業だけでなく、世界大でマクロに及ぶ。
こうして「経済安全保障」を重視すれば、世界経済の成長を阻害することは避けられない。「それは困る、イヤだ」と叫んだところで、世界史の大周期に従って起きる変化なので、止めることはできそうもない。冒頭の喩えで記したように、過去20年が出来過ぎだったのだ。好天は何時までも続くものではない。
過去野放図にばらまかれてきたグローバル・マネーがインフレの回帰によって収縮すれば、世界経済はさらに減速する。通貨危機に陥る新興国も出てくるだろう。そうなれば世界の各地で政情不安や国際紛争が起きて、経済成長に対するいっそうの重しになるだろう。
修正主義国家、とくに中国は、これまで信じてきた「今より民主的で公平な多極化世界」が幻想に過ぎなかったことを悟るだろう。中国がこの20年間享受してきた「(発展のための)戦略的機遇(チャンス)の時期」は良くも悪くも、米国の覇権によって支えられてきた側面があったからだ。
西側諸国が結束して国際秩序の急速な瓦解を防ぐことが重要
米国覇権が後退し世界が不安定化していくのを嘆いてばかりいても仕方がない。米国の力が相対的に落ちて内向きになるのなら、残る西側諸国が力を振り絞り、米国を励まして、失われようとする秩序を維持する努力をしなければならない。
その意味で、ロシアのウクライナ侵攻に対して、米・欧・日の西側諸国が一致結束して反対、対抗する姿勢を採れたことは、バッドニュース続きの世界にあって、数少ないグッドニュースだった。また、西側に一致結束した姿勢を採らせたきっかけは、ウクライナが決然と抵抗して善戦したことだったのを忘れてはならない。
ロシアのウクライナ侵攻は、中国も台湾に武力侵攻するのではないかという問題にも影響を与えた。ロシアがウクライナで無血に近い電撃的勝利を収めると予想していた中国にとって、ウクライナの抵抗とそれを支える西側諸国の強力な物的支援は、台湾との関連でたいへん不都合な展開だ。
しかし、「侵略に抵抗すれば、世界が助けてくれる」という教訓を台湾が汲み取って、市民レベルでの抵抗の備えを始められるかどうか…これは純粋に台湾の内政問題だが、未知数だ。
また、万一中国が台湾に侵攻したとき、ロシアと西側の対立に中立、静観の態度を採った東南アジア諸国がNATO諸国のような結束した反対、対抗姿勢を採れるかどうかも未知数だ。両岸問題の平和的解決を願い、武力統一の事態は絶対避けるべきとする日本外交の責任は、この点で大きい。
日本や欧州など米国以外の西側諸国にとって、現行秩序の維持温存を図る努力が欠かせないのは、経済についても同じである。世界経済のブロック化の趨勢を止めることは難しくても、自由貿易秩序の急速な瓦解は防ぐ努力をしなければならない。
西側価値観は人類が歴史の中で試行錯誤を重ねて築き上げてきたものだ。いまは退勢が否めないが、今後混乱のサイクルを経れば、必ず回帰、復活する日が来る。そのことを信じてこれからの我々を待つ試練を乗り越えていかなければならない。
執筆者プロフィール
津上 俊哉(つがみ としや)
(公財)日本国際問題研究所 客員研究員、現代中国研究家
1980年通商産業省入省。在中国日本大使館経済部参事官、通商政策局北東アジア課長、経済産業研究所上席研究員などを歴任。2018年より現職。
「中国台頭 日本は何をなすべきか」(日本経済新聞社/2003年)でサントリー学芸賞。近著に「米中経済戦争の内実を読み解く」(PHP新書/2017年)など。