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ロシア ウクライナ侵攻と今後の世界 (3) ユダヤ人大統領のユダヤ国家批判 放送大学 名誉教授 高橋 和夫【2022/5/19】

ロシア ウクライナ侵攻と今後の世界

(3) ユダヤ人大統領のユダヤ国家批判

掲載日:2022年5月19日

放送大学 名誉教授
高橋 和夫

玉虫色

 世界でユダヤ人を政府のトップとしていただいている国が二つある。ひとつは、もちろんユダヤ人が多数派の国イスラエルである。もう一つは2022年2月からロシアによる全面的な攻撃を受けているウクライナである。同国のヴォロディミル・ゼレンスキー大統領はユダヤ人である。

 そのゼレンスキー大統領が各国の政治家に直接ウクライナへの支援を訴えている。アメリカ、欧州連合、ドイツ、スイス、カナダ、日本などの議会に向けて演説を行った。それぞれの国の事情に合わせた内容で、感情を揺さぶるような語り口であった。その中でも注目を集めたのはイスラエル向けの3月20日の10分ほどの演説だった。というのは、ユダヤ人によるユダヤ人が多数派の国に向けたメッセージだったからだ。何を語ったのだろうか。

 その内容に入る前に、ウクライナに対するロシアの大規模な軍事攻撃に対するイスラエルの反応を見ておこう。それは、端的に言えば、玉虫色である。英語の表現を借りれば「塀の上に座っている」状況である。ロシアにもウクライナにも良い顔をしたいという姿勢である。具体的に見るとイスラエルはロシアのウクライナ侵攻への批判は控え目である。たとえばロシア軍の侵攻直後の国連でのロシア非難決議に賛成せず、アメリカを失望させた。またロシアに対する制裁にも消極的である。プーチン周辺の超のつく富豪の多くがユダヤ人でありイスラエルにかなりの資産を保有しているが、そうした資産の凍結もしていない。

 イスラエルはウクライナに対する医療面など人道支援には動いている。イスラエルの医療チームが、ウクライナからの難民の多くが流入しているポーランドに野戦病院を立ち上げている。またウクライナ国内にも病院を開いた。だが、欧米諸国の多くとは違い兵器の供与は行っていない。アメリカなどの強い要請を受けて、やっとヘルメットや防弾チョッキの供与を発表した程度である。

 なぜイスラエルは旗色を明確にしないのだろうか。ひとつにはロシアに残るユダヤ人の立場を考慮しているからだろう。ロシアには十数万のユダヤ人が生活している。ちなみにウクライナのユダヤ人口は7万程度である。恐らく、より重要なことにはイスラエルのベネット首相がロシアとウクライナの間の調停役を買って出ているからだ。そのためには、双方との良好な関係の維持が、不可欠だとの主張である。確かにイスラエルは、両国と深い人的なつながりを有している。というのは冷戦の末期以来、旧ソ連からの約百万人のユダヤ人を移民として受け入れたからだ。その大半は現在のロシアとウクライナからである。その結果、イスラエルの人口の15パーセントはロシア語の話者となっている。また政治家にも旧ソ連出身者は少なくない。ベネット首相はロシアのプーチン大統領と会談したりゼレンスキー大統領と電話で話したりと外交努力を続けている。


シリア

 調停のための中立維持という政策は、しかしながら、建前に過ぎない。本当の理由は別にあるとの見方が一般的である。それは中東でのロシアの反発を懸念しているからだ。具体的にはシリアでのロシアとの関係が問題になる。2015年にロシアがシリアのアサド政権を支援して同国の内戦に介入した。それ以来、この国の制空権はロシア空軍が押さえている。陸上では、やはりアサド政権側に立ってレバノンのヘズボッラ―など世界各地のシーア派の軍事組織が介入した。背後で、こうした動きを操っているのはイランの革命防衛隊である。イスラエルは北の隣国シリアでイランの影響力が強くなるのを恐れている。イスラエルとイランは敵対関係にあるからだ。

 そのためイスラエル空軍は、シリア国内のイラン関連の施設を大規模に爆撃してきた。こうしたイスラエル空軍の活動が可能なのは、ロシアの了解があるからだ。もしイスラエルがウクライナ情勢でロシア批判に回れば、シリアでのイスラエルの自由な軍事行動をロシアは許さなくなるだろう。これが、イスラエルがロシアを批判しない理由だと考えられている。


イスラエル批判

 さて、それではゼレンスキー大統領は、そのイスラエルの指導層向けに、どのような内容を語ったのだろうか。ウクライナの首都キエフ(キーウ)出身のイスラエルのゴルダ・メイア首相の言葉を引用して、両国間の関係の深さから説き起こした。メイアは、1960年代から70年代にかけて首相を務めた女性である。周辺のアラブ諸国への強硬な姿勢で知られた。当時のイスラエルの内閣で唯一の「男」と呼ばれた人物である。その任期中にイスラエルは周辺のアラブ諸国と1967年の第三次中東戦争と1973年の第四次の中東戦争を戦っている。さてゼレンスキーは、そのメイアの「隣人が自分たちの死を望んでいる時に譲歩は難しい」という旨の言葉を引用した。アラブ諸国との厳しい関係を反映したメイアの発言である。そして議論を次のように展開した。

 第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツのヒトラーは虐殺によるユダヤ人問題の「最終的解決」を目指した。その時、ウクライナはユダヤ人を救う選択をした。80年後、同じように世界の目の前でロシアのプーチン大統領はウクライナの文化を民族をコミュニティを全てを消滅させようとしている。今度はイスラエルがウクライナを救う選択をする時だ。なぜイスラエルは中立を維持して、ウクライナを助けないのか。イスラエルが世界で最も優れた対空防衛システムを持っているのに、なぜウクライナ人とウクライナのユダヤ人を助けないのかと批判した。善と悪との間には調停など不可能である、と続けた。

 なぜ助けてくれないのか。この「なぜ」という問いかけの答えを選ぶのはイスラエル自身である。歯に衣をきせず、激しく厳しく鋭くイスラエルの政策を批判したゼレンスキーのメッセージだった。


突き刺さる問い

 イスラエルの反応は、どうだったのか。まずゼレンスキーの言葉使いへの反発があった。ウクライナの置かれている状況の厳しさに理解を示しつつも、その状況をホロコーストとして知られる第二次世界大戦中のユダヤ人の大虐殺に比較した点が、反発を招いた。ホロコーストは唯一の経験であるというのがイスラエルで受け入れられた「正しい」言説だからだ。つまり、ある国の指導層が一つの民族集団の絶滅を計画し実行しようしたのは、他に類のない行為であるという認識である。

 もう一つの批判のポイントは、第二次世界大戦中のウクライナ人のユダヤ人への対応である。確かに命を賭けてユダヤ人を救おうとした人々はいた。だが、ナチスのユダヤ人虐殺に協力し加担した人々は、もっと多かった。その結果150万人のウクライナのユダヤ人が虐殺された。 

 こうした事実認識に関する反論の声が高いのは、恐らくゼレンスキーの質問の核心に対して、イスラエル人の多くが答えに詰まっているからだろう。つまりイスラエルは、どちらの側に付くのか。善の側なのか、悪の側なのか。侵略者の方なのか、被害者の方なのか。イスラエルが基本的に欧米との価値を共有する西側の国なのか、そうでないのか。突き刺すようなゼレンスキーの問いかけが、イスラエル人の心理の深層で反響している。多くがダンテの「神曲」の言葉を思い起こしているだろう。「道徳的危機において中立の立場をとった者のために、地獄で一番熱い場所が用意してある」との。


執筆者プロフィール
高橋 和夫 (たかはし かずお)
放送大学 名誉教授
一般社団法人 先端技術安全保障研究所(GIEST)会長

福岡県北九州市生まれ。コロンビア大学国際関係論修士号を取得後、クウェート大学客員研究員、放送大学教員などを経て2018年4月より現職、専門は、国際政治・中東研究。『アラブとイスラエル』 (講談社現代新書、1992年)、『中東から世界が崩れる 』(NHK出版新書、2016年)など著書多数、最新作は『パレスチナ問題の展開』(左右社、2021年) ブログなど
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