第184回 中央ユーラシア調査会 報告1/ 「プーチンの“第2ヤルタ体制論”と露の中近東進出」 新潟県立大学教授/青山学院大学名誉教授 袴田 茂樹(はかまだ しげき)【2019/11/26】

日時:2019年11月26日

第184回 中央ユーラシア調査会
報告1/ 「プーチンの“第2ヤルタ体制論”と露の中近東進出」


新潟県立大学教授/青山学院大学名誉教授
袴田 茂樹 (はかまだ しげき)

1. ロシア人の中東・アラブ・イスラエル観、「新たな地政学の時代」
 私がモスクワ大学の大学院に留学したのは1967年で、これはイスラエルとアラブ諸国の間で行われていた第三次中東戦争、いわゆる六日戦争のすぐ後だった。そして私は当時のソ連に5年間、住むことになり、その際、多くのアラブ人も留学していた。ソ連は当然、アラブ諸国を支援しており、アラブ諸国に大量の武器も供給していた。しかし、この戦争は六日戦争といわれるとおり、あっという間に決着がつき、イスラエル側が圧勝、アラブ諸国は惨敗という状況になった。その時のロシア人のアラブ諸国に対する見方だが、「自分たちの味方だから、残念だ」という風に見ているかというと、そうではなく、「イスラエルはすごい。アラブ人は情けない」というものだった。その見方は今日まで、基本的に変わっていない。ロシアが公式的に、様々な形でアラブ諸国を支援しているのも事実だが、では、ロシア人がアラブ諸国に強い親近感を持ち、アラブ諸国の人たちと同様にイスラエルを敵視しているかというと、実はそうではない。
 これと関連して言えば、ドイツに長い間住んでいたあるロシア人は、ロシアのメディアでドイツのイスラエル観を厳しく批判している。そのスタンスは、「なぜ、ドイツはイスラエルに対してこうも厳しいのか」というもので、ロシア人の方が遥かにイスラエルへの見方は肯定的だという立場から批判している。これは、我々が想像するのとは逆転した見方だと思う。このロシア人の言う「ドイツ人のイスラエルに対する厳しい見方」を知ると、どうも日本人のイスラエルに対する見方も、これとかなり似ているのではないかと思える。それは、イスラエルが攻撃的で、パレスチナ側が被害者という見方だ。しかし、多くのロシア人に言わせると、イスラエルは武力を使ってでも断固として国を守ろうとしているのであり、ロシア人はその姿勢をむしろ評価しているのだ。しかし、ドイツではイスラエルの同じ行為に対し、「攻撃的」、「侵略的」という見方が強い。ドイツとは逆にロシアでは、全力で国を守ろうとするイスラエルは「お見事」という評価なのである。
 戦後の地政学に関しては、中東から外れるが、プーチン大統領は2015年9月に国連総会で演説を行い、その冒頭でヤルタ体制を賛美している。今日は新たな地政学の時代といわれるが、ロシア人の理解によれば、「ヤルタ体制はいくつかの大国が中心になり、戦後世界を勢力圏に分割して世界の安定を保った」という考えだ。ロシアの東欧、バルト諸国支配も、北方領土の不法占拠もヤルタ合意で正当化される。これに対して、戦後の米国の大統領たちはヤルタ合意を否定していた。米国のブッシュ大統領は2005年5月、モスクワの戦勝記念日に招かれた際、バルト三国の一つラトビアの首都リガに寄り、「米国の歴史における最大の間違いだった」と言って、ヤルタ体制を真っ向から否定する見解を示した。しかし、プーチン大統領はそれとは逆の評価をしているのである。
 中東問題に帰るが、米国はオバマ大統領以来、米国は中東から手を引き、米軍も撤退させるという姿勢を見せている。これは地政学的観点から言うと、ロシアにとって絶好のチャンスということになる。米国とあれだけ密接な関係を持っていたサウジアラビアでさえも、ロシアから最新ミサイルシステムのS-400を導入しようかという動きも出ている。石油減産問題ではロシアとサウジアラビアの合意は簡単ではないが。また、イランやシリアの独裁体制が欧米の反発を受けており、ロシアはこの状況も利用している。さらに、トルコのエルドアン政権も、クーデター未遂事件を機に独裁体制強化の動きを示し、欧米諸国はこれに強く反発した。それを契機にして、ロシアはトルコにも強い関心を示し、トルコもS-400の導入を決めた。

2. プーチン政権下でのロシアの地政学的野望
 今日のロシアのそういう前述の地政学的な野望は、ロシアで最近言われる「第2ヤルタ体制」という概念に集約される。これは、今日のプーチン大統領が抱く野望の一つの表現だ。以下では、この大国主義的な動きがいつから強まったかについて、簡単に説明する。2003年にはロシアの副首相も務めたチュバイスが、「リベラルな帝国主義」という考えを打ち出した。チュバイスは決してソ連時代の大国主義に同調している人物ではなく、むしろそれを批判する改革派、民主派のリーダーの筈だが、そのチュバイスが「ロシアはCIS諸国全体の唯一の指導者である」と述べるようになった。さらに、「ロシアのイデオロギーはリベラルな帝国主義」とし、「リベラルな」という形容詞は付けているものの、帝国主義という言葉を堂々と使うようになった。また、「ロシアは必要なら隣国の民主主義や市民を擁護する」と述べている。隣国の市民という際に念頭に置いているのはロシア系市民で、それを擁護するための行動をとる、という意味である。さらに彼は、「隣国領土の住民投票によるロシア併合も有り得る」と述べた。この言葉は、その後のクリミア併合を予言する言葉とも言える。つまり、プーチン大統領の行動について、元は改革派だったはずのチュバイスが、2003年当時、既にこのような予言的な発言をしているのである。
 一方、2006年6月1日にはロシア外務省のスポークスマンが、ロシアは「領土保全」から「自決権」に軸足を移した、という発表を行った。領土保全や民族自決権は国連憲章でも述べられており、どちらを重視するかということが問題になる。民族自決権を重視すると、領土保全という概念と衝突するからだ。ロシアはソ連邦崩壊後、独立したロシア連邦がさらに分解してしまうことを懸念し、「領土保全」の方に重点を置いてきた。しかし、2006年のロシアは、2001年以来の油価上昇等で外貨が大量に流入し、再び大国としての自信を取り戻した時期だった。そして2008年には、グルジア(現ジョージア)内の南オセチア自治州、アブハジア自治共和国の独立を画策したが、その時、ロシアが主張したのが「自決権」だ。つまり、「民族の自決権を尊重」するという建前で、周辺の国々を再びロシアに併合する、あるいは独立させるという考えを明確に打ち出したのが、2006年6月のロシア外務省スポークスマンによる発表だった。
 ロシアはグルジア戦争で南オセチア、アブハジアを「独立」させ、事実上ロシアの保護国にした訳だが、その際、「ロシアの特殊権益圏」という言葉を使っており、これは「新ブレジネフ・ドクトリン」といわれる。ブレジネフ・ドクトリンは「制限主権論」とも言われ、ロシアが衛星国を支配する際の基本的な原理だ。これは社会主義陣営全体の利益の方が、各国の主権や個別の国家利益より上にあるというもので、この特殊権益圏の主張はブレジネフ・ドクトリンの再来と言われた。
 さらに問題なのは、米国のオバマ大統領が事実上、それを認めてしまったことだ。オバマ政権はその翌年の2009年に発足したが、大統領がその際打ち出したのが、「米露関係のリセット(改善)」だ。ロシアがグルジアを侵攻した直後に「ロシアとの関係改善」を唱えることは、事実上グルジア侵攻を認めたことになる訳で、これによってロシア側は大いに自信を強めた。そしてロシア側は、「欧米諸国は言葉ではロシアを批判しているが、事実上、何もできないではないか」と考えるようになった。もしもこの時、米国のオバマ大統領が、ロシアの隣国侵攻に対してより厳しい対応をしていたら、あのような形でのクリミア併合問題は生じなかったかもしれない。プーチンはすでにこの時、米国をはじめ北大西洋条約機構(NATO)諸国はクリミア問題を言葉で批判しても、実際には何もできないという確信を持ったと私は思う。現実は、その通りとなってしまった。
 ロシアはさらにクリミア併合の翌年の2015年9月30日に、シリアのアサド政権が「テロリスト」と呼ぶ反政権勢力が強い地域を空爆した。このシリアでの軍事作戦後、同年10月に行われた世論調査で、プーチン大統領は89.9%という、これまでで最高の支持率を獲得している。また、2017年11月にプーチン大統領は、アレクサンドル3世を高く評価する演説を行い、よりによってクリミアに、その大きな記念碑を作っている。アレクサンドル3世の父親であるアレクサンドル2世は農奴解放など開明的な改革で知られているが、息子の3世はそれとは全く逆に保守反動と言われた。彼は「ロシアの同盟国でさえ裏切る、信頼できるのはロシア軍だけだ」とも述べており、プーチンン大統領はその言葉を記念碑に刻み込んで、アレクサンドル3世を讃えた。

3. プーチン大統領とトランプ大統領の「国境観」
 プーチン大統領は2019年のヴァルダイ会議で、「日本はわれわれに制裁を科している」と述べた。クリミア問題やシリア問題等でロシアはG7の制裁を受けているが、プーチン大統領は「シリアやクリミアはどこにあるのか」と述べ、日本とは何の関係もないではないか、と言わんばかりの発言をしている。彼は自ら国際法学者だと言っているが、国際法的な発想はまるでなく、あるのは地政学的な発想だけだ。したがって、クリミアを併合しても、日本に何の関係があるのかと述べたのである。
 軍事評論家の小泉悠氏がこの度、サントリー学芸賞を受賞することになったが、彼は国境という観念はロシア人にとって浸透膜のようなものだと説明する。つまり、国際法的な意味での国境ではなく、ある国の力がどれだけその地域に及ぶかといった事と結びついた観念だと最近の本に書いている。この辺の心理は「(日本にとって)シリアは何処にあるのだ」という、プーチンの言葉によく表れている。
 また、米国のトランプ大統領も同様に、トルコ軍のシリアへの越境侵攻について「我々の国境ではない」 と述べている。つまり、トランプ大統領にとってもそのような国境侵犯は米国には関係なく、関心があるのは米国の国境だけということだ。したがって、シリアの国境が侵されようとそれは自分たちの問題ではないということで、かつての世界のリーダー、ルールメーカーとしての米国とは全く異なる発想になっている。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:国際経済連携推進センター)

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