第181回 中央ユーラシア調査会 報告2/ 「チベット出張報告」 中央アジア・コーカサス研究所 所長 (一社)中国研究所 会長 田中 哲二(たなか てつじ)【2019/07/26】

日時:2019年7月26日

第181回 中央ユーラシア調査会
報告2 「チベット出張報告」


中央アジア・コーカサス研究所 所長
(一社)中国研究所 会長
田中 哲二 (たなか てつじ)

1. 向上している市民生活と厳しい治安維持政策
 私は中央ユーラシアを含めて東アジアに長年関わっているが、チベットは訪問したことがなく、一度は行ってみたいと思っていた。チベットは調査のために入るというのは時節柄難しいと聞いていたので、今回、観光旅行団の一員として行ってみることにした。観光客として現地入りしながら、自分がこれまで疑問点と感じていたところについてアンテナを高くして見てこようと考えた。
 チベットへは今年4月末から5月初めにかけて行くことになり、「令和」はラサで迎えることになった。中国が今なぜ、外部からの訪問に対して警戒的になっているのかと言うと、今年はチベット動乱60周年、さらに、天安門事件から30周年、ウイグル暴動10周年という節目の年に当たる。そこで、中国は節目をうまく乗り越えるために、世界のジャーナリズムから批判を受けたり国内から様々な反論が出るような状況が出現することは避けたいと考えている。このため、観光以外の目的では来てほしくないというのが本音であろう。
 このような中での現地訪問は相応の緊張感があった。
 2つのポイントがあり、第1に、ウイグル自治区と同様、チベット自治区の中央政府に対する求心力を保つため、市民の経済生活水準を上げようとしている。そこで、そのための公的投資を惜しまずやろうという動きが強く出ている。結果的に、チベット自治区の平均的な公的年金は現在、中国で一番高いものとなっている。また、チベット自治区の様々な労働者の賃金も周辺の省よりかなり高くなっており、周辺の四川省などから多くの労働力が入ってきている。特に、建設業や観光業のような第三次産業には、周辺の省から多数の出稼ぎ労働者が来ているそうで、経済がそこまで良くなっているのかという印象を受けた。
 しかし、実際にはチベットではそれほど目立った産業が育っていない。チベットは全体が山岳地帯で、農業もヤクの放牧や、漢方に使われる有名な“冬虫夏草”の採算が稼ぎ頭となっているような状態だ。産業らしき産業はあまり発達していないのだが、中央政府や近隣の政府からの財政投融資で、都市開発関連投資が旺盛で不動産が非常に活発に動いている。すなわち、新しい居住地区やスポーツセンターのような社会インフラが整備されている。また、道路建設に対し、中央から多くの投資が入っており、市場の経済活動も活発に見える。外資についても、政府がある程度の保証をしても積極的に取り入れている。その一環として、いくつかの立派な五つ星ホテルの建設などが進められている。10~15年前と比べると、街並みは大きく変化し、道路網の整備も進んでいる。これらは大部分が、政策的な投資によるもので、民間の産業が自律的に発展しているわけではないようだ。
 他方で、非常に難しい局面も抱えており、特に治安維持面で緊張感が強い。私達はラサのほか、他の町へも行ったが、自動小銃を構えた公安の人民武装警察の部隊が始終パトロールをしていた。寺院へ行った際にも、人民武装警察の部隊のテントが張られ、部隊ごとの立哨警戒が行われていた。我々がカメラを向けると関係者が飛んできて押さえられ、「撮影不許可」と言われた。観光旅行者の中にはカメラやフィルムを没収されたり、ひどく抵抗するものはテントに連れ込まれたりしていた。このように、すごく治安維持のための緊張感は強いものがあった。空港のほか、大きな寺院の参観入り口では厳しいチェックを受けた。特に、乾電池や着火用のライターについて調べられた。これはなぜかと思ったら、2013年ごろからダライ・ラマ一派のチベット仏教徒たちが、現在のチベット仏教抑圧の政権のあり方を批判して投身自殺するようになった。有名な寺院の前でガソリンをかぶり、自ら火を点けて自殺する。そういうことが近年は年に10~20件起きているので、それを警戒しているという話だった。
 もう1つ、産業の育成に関しては、有力な産業資源のないチベットが生き残るためには、やはり観光立国を経済発展の糧にしていかなければいけないということがある。そこで、観光を促進するために歴史のある古くて有名な寺や仏像を修復し、そこに一度は還俗させた僧侶を呼び戻し、「形態的には昔と同じ宗教活動をとって良い」というようなことをやっている。有名な寺は建物や僧侶の数で、昔と同じような形態となっているが、これらはあくまで観光振興のためであり、決して、チベット仏教の全面的な復活を認めたということではないようだ。この辺は、非常にデリケートな話だ。したがって、チベット仏教やチベットの寺院を中心に活動していたかつてのゲマインシャフト的チベット社会は壊れ、「疑似ゲゼルシャフト」的な社会に変質しつつあるという印象を受けた。
 いずれにしても、「改革開放」政策期の後半の15年間ほどは、中央政府によるチベット独立志向の抑圧と中央政府への求心力維持のため、社会インフラ投資の進展、観光業を中心とする多額の外資の導入、市民の生活水準の向上などに注がれ、チベット経済・社会は相応に発展していると言うことは可能であろう。2019年3月27日、中国政府は、「チベット民主改革60年」に関する白書を発表し、「共産党の指導の下、チベットの発展は新時代に入った」と宣言して、「すでに信仰の自由は保障され」「住民の生活満足度は97%を超えた」とまで述べている。

2. 中国における「民族自決」理解とチベット、ウイグル問題
 今回のチベットの現場をみたことで、新疆ウイグル自治区の問題も絡めて色々考えさせられた。ここ数十年間経験してきた中国とロシアにおける少数民族の統治の違いは、民族自決というものに対する考え方の差だと思う。すなわち旧ソ連邦では、連邦の枠内で少数民族共和国の独立を認め、行政、治安維持等に実質的に大きな権限を持つ地区共産党の第一書記に少数民族の実力者を登用したのに対し、中華人民共和国は少数民族の独立は認めず省レベルの自治区扱いとし、地区共産党の第一書記を北京から派遣の漢族に限ってきている。勿論、途中ではどちらにも少数の例外はある。さらに、地域固有の宗教に対し強い抑圧を継続しているので、チベット自治区(チベット仏教)と新疆ウイグル自治区(イスラーム教)での反政府感情は深いところではそう簡単に収束しそうにない。ソ連は、ウクライナやグルジア、キルギスのような国々には自立を与えつつ、連邦制という形で帝国を形成するということをしていた。これに対し、中国では表面的に、国内の公称56民族が直接団結して帝国を作るということのようであるが、その直接団結体制の作り方に時間のかけ方を含めて少し、無理があったのではないかという感覚だ。
 これは一般論だが、社会主義や共産主義というものを含め、イデオロギーに対しては、国民・市民はそれが多少長期に亘っても面従腹背という行動をとれる。しかし、宗教や社会慣習といったところでは面従腹背は長続きせず、どうしても本音のリアクションが表面化してしまう。したがって、チベット仏教やウイグルのイスラームの反応は、今後数世代にわたり、時々噴出する可能性がある。現在、ウイグル自治区では、「宗教的過激主義の除去」を一つの命題とする「職業技能教育訓練センター」に多くのウイグル人が収容され、「愛国教育」を受けているが、国連人権委員会もその数は100万人以上と認定している。
 今、中国の第2期「習近平政権」は「一帯一路」構想の拡大とともに、最終的な目標として中国のイニシアティブによる「人類運命共同体」の実現を掲げている。その前に当然「アジア運命共同体」も必要になることも言明している。今アジアの中小民族国家は、中国がこうした共同体形成に具体的にどう関与するのか、多少の警戒感を持ちつつ慎重に見極めようとしている。その判断の大きな材料となるのが、「一国二制度」の下にある「香港・マカオ行政区」の取り扱い(及びその延長線上にある「台湾」問題に対するアプローチ)と、すでに国内行政区である「チベット自治区」「ウイグル自治区」等の少数民族の取り扱い方の内容にあることは中国政府自体がよく理解認識しているはずである。これらの地域における「民主主義」「人権」「民族主義と自治」「宗教の自由」「環境」等に対する中国当局の究極の対応をアジアのみならず世界が注目している。少数民族対策(少数民族との「共存共栄」策の具体的内容等)がアジアの人々によく理解されないと、その先にある「人類運命共同体」構想自体が画餅に終わる可能性があることは明記しなければならない。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:国際経済連携推進センター)

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担当:企画調査広報部