第181回 中央ユーラシア調査会 報告1/ 「“帝国” の周縁を歩いて:ウクライナ、モルドバ、アルメニアと “未承認国家”」 東京新聞 外報部次長 常盤 伸(ときわ しん)【2019/07/26】

日時:2019年7月26日

第181回 中央ユーラシア調査会
報告1 「“帝国” の周縁を歩いて:ウクライナ、
モルドバ、アルメニアと “未承認国家”」


東京新聞
外報部次長
常盤 伸 (ときわ しん)

1. ウクライナ、モルドバ、アルメニアと「未承認国家」へ
 今年5月下旬から6月上旬にかけてモルドバ、ウクライナ、アルメニアの旧ソ連3カ国を訪問した。モスクワ経由でイスタンブールに入り、そこからモルドバの首都、キシナウへ行った。その後、いわゆる未承認国家である沿ドニエストル共和国の首都ティラスポリに向かい、その後はモルドバの首都、キシナウへ戻り、キエフ経由でウクライナ第2の大都市、東部ハリコフへ向かった。そこからさらに北へわずか40キロでロシア国境周辺の状況を見てからひたすら車で南下し、ドネツク州のスラビャンスクに向かった。その後、首都キエフへ行き、最後に南カフカースのアルメニアの首都エレバンへ行って帰国した。

2. 混乱続くモルドバ政治
 モルドバはドドン大統領の就任後に初めて行われた今年2月の総選挙後、政治的に大混乱に陥った。まず、実業家のプラホトニュク氏率いる親欧米派の与党と、ドドン大統領率いる親露派的な社会党、そして欧州統合(EU)加盟を掲げる市民の政党連合、ACUMの獲得議席がほぼ同数になり、連立政権がなかなかできない状況が続いた。与党の民主党については、親欧米ではあるが、腐敗体制が強いということで市民の反発が強かった。
 そこで、本来は水と油のような社会党とACUMが連立を組むことになった。ところが今度は憲法裁判所がドドン大統領を解任し、事実上の二重権力状態に陥ったのだ。とはいえ、腐敗体質が強い民主党に対する国民の反発は強く、結局6月17日にプラホトニュク氏らが国外逃亡し、権力闘争にあっけなく決着がついた。というわけで社会党とACUMの連立政権という選択肢以外になく、ドドン大統領が、社会党とACUMの新たな合意文書の締結を提案した。ウクライナなど欧州に近い他の旧ソ連諸国に共通した課題だが、EUへの加盟を志向しつつ対露関係の改善も進めるという、ある意味、二律背反的なともいえる対外政策を綱渡りのように推進しなればいけないという状況だ。
 モルドバの言語については、公用語のルーマニア語以外にもロシア語が多く使われている印象だ。今回、私がモルドバを訪問して接触した人々の大部分が、普通にロシア語を話していた。私が宿泊したキシナウ中心部のホテルに近い公園の脇では、プーシキンなどのロシア語の文学書が売られており、市民らが面白そうに手に取って見ている姿もあった。また、ロシアで言うところの大祖国戦争、第二次大戦の記念碑もしっかり残っていた。キシナウには親ロシア派ドドン大統領の政治スローガンを掲げる大きな掲示板が目立った。旧ソ連による大祖国戦争勝利の象徴となっている聖ゲオルギー勲章が描かれているのが親ロ的な傾向を際立たせていた。
 さて旧ソ連時代末期以来、ロシアの支援でモルドバから未承認国家の沿ドニエストルには簡単に入ることができた。以前はジャーナリストや学者の報告にあるように、ドニエストル入りするには、コネクションが必要だったりするなど、それほど容易ではなかったとされるが、今回は拍子抜けするほど容易だった。政治的な理由で一時的に制限が緩和されているのかは不明だ。
 宿泊したホテルのフロントでスタッフに沿ドニエストル行きについて尋ねると、彼女はおもむろに観光案内用のパンフレットを取り出し、「外国語のできる運転手が案内するので安心ですよ」と言った。沿ドニエストル行きはキシナウでは外国人向けの観光コースに組み込まれているようだ。ドイツ人やアメリカ人など欧米諸国からの観光客にとっては、モルドバの目玉商品であるワイン関連の施設訪問と並んで、事実上、モルドバ観光の目玉となっているようだった。

3. 沿ドニエストルの変貌
 私はモルドバ到着の翌日、タクシーをチャーターし、キシナウから約3時間の地点にあるベンデルを経由して、「首都」のティラスポリに入った。ベンデルといえば、ベンデル要塞で知られる。 これは元々16世紀前半、オスマン帝国が建設し、19世紀初頭、ロシア領となった。その後は様々な経緯があったが、3、4年前から資金を投入して整備が進んだようで、それなりに立派な観光地になっていたのは意外であった。ここにはベンデルの歴史を伝える要塞博物館もあった。博物館の入り口のプレートには、ロシア軍事史協会の支援でつくられたことが記されていた。このロシア軍事史協会こそプーチン政権が推進する愛国主義的な歴史教育の先兵のような存在である。プーチン政権は、旧ソ連地域におけるロシア語使用者やロシア文化に慣れ親しんでいる人々の共同体をいわゆる「ロシア世界」として影響力浸透を狙っているが、図らずもその一端が示されたといえる。博物館の一角では、大祖国戦争、第二次大戦で使用された武器の展示会が開かれていた。ロシアの地方でもよく見かける類のものだった。
 ドニエストル川にかかる橋の西側にはロシア国旗が、東側にはドニエストルの旗が掲げられていた。戦没者の慰霊施設が中心地にあった。ドニエストル紛争の慰霊だけでなくソ連のアフガン侵攻での戦死者も入っている。おやっと思ったのは、旧ソ連ウクライナのチェルノブイリ原発事故で応援に駆けつけて亡くなった人々の慰霊碑も、新たに作られていたことだ。
 訪問前は、無味乾燥な街並みが続き、ろくに娯楽もないといった、タイムマシンでミニソ連に戻ったような街並みを想像していたが、予想は大きく裏切られた。
 確かに、市庁舎など重要な施設前にはレーニンの銅像や胸像が鎮座し、古めかしいスローガンが掲げられている。しかし街の雰囲気はソ連とは全く異なり表面的には、ロシアの地方都市の生活とさほど変わらない印象だ。「ミニソ連」は過去のものになったといえそうだ。現地では、最近日本で上映された「アラジン」や「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」といった最新のハリウッド映画も上映されていた。また、現地で雇った運転手の話では、ドニエストルに入った途端に道路の状態が良くなるということだった。この辺も、かなりの予算をインフラ整備に使っているようだ。現地で出会った子供らは屈託のない表情で話しかけてきた。独占企業であるシェリフという企業が経営する大規模なスーパーなどもあり、シェリフが建造した大きなサッカースタジアムも目立った。ティラスポリは1792年にロシアのスヴォーロフ将軍が建設した。それを記念し将軍の名前を冠した広場が中心部にあり、ロシアを含めて世界有数とされる大きなスヴォーロフ像が鎮座しており、沿ドニエストルの象徴的存在となっている。沿ドニエストルを国家承認しているのは、アブハジアと南オセチア、ナゴルノ・カラバフという3つの未承認国家で、これらのいわゆる国旗も掲揚されていた。

4. 変わるウクライナ情勢
 次に訪問したウクライナでは政治状況が大きく変化している。コメディアン出身のゼレンスキー氏がポロシェンコ前大統領を破って、圧倒的な支持を受けて大統領に就任し、ゼレンスキー氏が結成した与党「国民の奉仕者」が先日行われた議会選でも圧勝、ゼレンスキー氏一強体制のような状態になっている。
 その原動力となっているのは、新興財閥(オリガルヒヤ)が牛耳る既存政治の腐敗への幻滅、そして東部で続く紛争への疲れも大きいだろう。
 「国民の奉仕者」という政党名は元々、テレビの人気ドラマのタイトルだった。このドラマではゼレンスキー氏が学校教師から大統領に駆け上がり、勧善懲悪のような形で悪い連中を成敗するという筋立て。ゼレンスキー氏はこのドラマの成功によって、圧倒的な人気を勝ち得た。
 ゼレンスキー氏の課題は二つに集約されよう。まず第一に、2014年の民主政変後も続く汚職政治から脱却すること。そして第二に、親欧米路線を維持しながらも、東部ドネツク、ルガンスク州の約三分の一を占める地域で続く紛争(ドンバス紛争)の収拾だ。「ドネツク人民共和国」、「ルガンスク人民共和国」を名乗る親ロ派勢力の後ろ盾となっているプーチン政権との交渉を進めることだ。背景には東部の紛争で相変わらず犠牲者が出続け、国民の間で厭戦気分が高まっている状況がある。
 しかしこれは極めて困難な課題だ。実は、5年前に大統領に当選した当時はポロシェンコ氏もゼレンスキーと同様に高い支持率を得て、同様の課題に取り組む強い意欲を示していた。政治、外交、軍事、メディアなど情報分野など様々な分野で圧力をかけるプーチン政権との交渉は前途多難だ。目に見える成果が出なければ、ゼレンスキー氏への支持もあっという間に急落するだろう。ウクライナの国防省がほぼ毎日出しているドンバス紛争の状況説明を見ると、ウクライナ東部の紛争では現在も砲撃が続き、死者が出ている。ドネツク人民共和国では最近、プーチン政権が、いわゆる共和国住民の希望者にロシアのパスポート発給を開始するなど、状況はますます複雑化している。

5. 脱ロシア化としての「非共産化」
 旧ソ連圏諸国を分析するに際して私自身が、注目しているのが、いわゆる「脱共産主義化」(Decommunization)の政策だ。これはポーランドなど東欧でなされてきた試みで、地名、建物、学校など人間の心理に影響を及ぼす象徴的な言葉から、共産主義的なものを排除し、政治的な浄化をはかるものだ。共産主義的なシンボルは現在の権威主義化したロシアでは愛国主義的なシンボルなっており、事実上、「脱ロシア化」の推進と言ってよいだろう。
 モルドバは、ソ連崩壊後、ウクライナに先駆け、地名などでソビエト的な名称を廃止している。ただし、キシナウの隣接した広大な公園へ行くと、レーニン像とマルクス像がひっそりと残っていた。ただ、これは、中心部から移設され単なる展示物になっているにすぎない。また、中心地のキシナウ駅の前にはソ連時代の弾圧犠牲者らの慰霊碑が設けられていて、印象的だった。
 一方、非共産化はウクライナでも急ピッチで進行した。ソ連崩壊後にも地名などの非共産化政策は実行されたが、まだまだ不徹底だったが、2014年に起きた民主化政変、ロシアによるクリミア併合そして東端部での紛争が起爆剤となって、ウクライナにおける非共産化はかなり進行している。
 ソヴィエトの政治家やボルシェビキ革命の記念碑などはほぼ撤去されているが、労働者の状況改善に努めたような人物については例外的に残されていた。例えば、ハリコフでは大半のブレジネフ時代に首相を務めたチーホノフ氏の胸像が保存されていたのが目についた。ただ、巨大なレーニン像は5年前に撤去された後、私が訪れた際には、工事現場の一部として、どこに位置していたかも全く分からなくなっていた。
 さてキエフは、民主化政変から5年が経過し、騒乱で破壊された独立広場周辺は復興が進み、欧米などの観光客で非常に賑わい、夕方以降などはごった返しているような状況だった。
 独立広場に面したフリシャーチク通りでは、「尊厳の革命」と呼ばれる2014年の政変に関するパネルや、スターリン時代の強制収容所に関する大きなパネルも見られた。当時、抗議デモと治安部隊の激しい衝突で焼けてしまった労働組合会館もきれいに修復されていた。
 ロシア正教会から完全に分離したウクライナ正教会の総本山、「聖ミハイル黄金ドーム修道院」の長い壁面には東部の紛争で死亡した軍人の写真や経歴を記したパネルが延々と掲示され、市民が見入っていた。「尊厳の革命」の現場は歴史地区になっていた。
 現在も続く東部紛争の舞台、ドネツク州のウクライナ政府側支配地域であるスリャビャンスクにも入った。ここは現在、ドネツク人民共和国と名乗っている親露派勢力に2014年の紛争勃発直後に一時的に、支配されていた地域で、政府軍との間で激しい戦闘が行われたところだ。親ロ派が選挙した警察署など中心地の大半は復興がほぼ完了していた。ただ中心地から離れた地点にあり、激しい戦闘現場となった大きな病院はそのまま放置されている。中に入ってみたが銃撃戦の跡が今も生々しく、破壊しつくされた建物は凄惨な市街戦の有様を物語っていた。
 一方、最後に訪れたアルメニアでも大きな変革が進んでいる。約1年2ヶ月前の、5月、サルキシャン氏の長期政権による汚職と経済低迷に反発す市民による大規模な抗議デモがエレバンなど各地で勃発した。サルキシャン氏が大統領から首相に転じてなお権力に居座ろうとしているとして激しく反発。そして、軍や治安機関も一部が離反し、グルジアやウクライナで起きたような民主政変になった。
 私が現地で訪れた通りはその時、数万人の抗議デモで埋め尽くされた。そして、パシニャン政権が発足したが、これまでのところ、変革の成果はあまり出ていないようだ。エルバンで会った芸術家のマルディルス・バダリャン氏は、パシニャン氏が直面する状況を皮肉って「色々大変で、針のむしろに座っているようなものだ」と話していた。
 ナゴルノ・カラバフでは2016年に紛争が一時、再燃したが、その後はほぼ凍結されたような状態だ。アルメニアのパシニャン大統領はこの問題では前政権と同様、強硬姿勢を貫いており、同じく強硬姿勢のアゼルバイジャンとの対話も非常に困難状況といわざるを得ない。こうした事情からナゴルノカラバフ紛争でアルメニア寄りのロシアとの関係を悪化させることはできず、パシニャン政権の親欧米外交には限界があり、アルメニアの置かれた厳しい地政学的な立場を物語っているといえそうだ。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:国際経済連携推進センター)

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