第180回 中央ユーラシア調査会 報告/ 「独立から30年、カザフ映画の今」 株式会社Studio-D Japan プロデューサー、監督、脚本家 佐野 伸寿(さの しんじゅ)【2019/06/20】

日時:2019年6月20日

第180回 中央ユーラシア調査会
報告 「独立から30年、カザフ映画の今」


株式会社Studio-D Japan
プロデューサー、監督、脚本家
佐野 伸寿 (さの しんじゅ)

1. 戦後のカザフスタンにおける映画づくり
 カザフスタンで本格的に映画が作られるようになったのはソ連時代のことで、ソ連では各共和国に映画の撮影拠点が作られた。当時、作られていた映画はどちらかというとプロパガンダで、地域の人々に共産主義の教えを伝えるような役割を果たしていた。第二次世界大戦開始後はモスクワで映画が作れなくなり、映画づくりの一部がカザフスタンに疎開した。そこで作られた映画の中には、例えば、セルゲイ・エイゼンシュテインの「イワン雷帝」がある。戦後は1970年代ごろまで、役者でも監督でもあり、現在のカザフスタン・スタジオの名前の由来にもなっているシャケン・アイマトフが、ソ連時代に盛んに作られていた通俗的なドラマを作っていった。通俗的なドラマと言っても、人々は熱狂し、人気は大変なものだった。当時の映画は、現在主流となっているカザフスタン映画とは、かなり異なるものだった。
 1980年代、旧ソ連邦に属していたカザフスタンでは「映画人同盟」が映画の全権を握っており、80年代半ばには反核市民団体「ネバダ・セミパラチンスク運動」の議長でもあった作家のオルジャス・スレイメノフが、その会長となった。一方、モスクワの映画大学では当時、セルゲイ・ソロヴィヨフという非常に有能な監督が教壇に立っていた。そしてスレイメノフとソロヴィヨフは協力し、カザフスタンの才能ある若手を映画大学に入学させ、将来のカザフ映画を担う映画人を育てようということになった。これらの若手は後に、「カザフ・ニューウェーブ」といわれる新しい映画を作ることになった。中でも、ラシド・ヌグマノフによる映画「僕の無事を祈ってくれ」は世界的に有名になり、日本でも各地で上映された。カザフスタンのアルマトイ市内には現在も、この映画で主役を演じたヴィクトル・ツォイの銅像がある。当時は様々な映画が作られ、カザフスタンの名は徐々に世界で知れ渡った。ソ連崩壊直前の時期だったが、自由な映画が作られ、海外でも評判になった。ソ連時代は基本的に、映画に当てられる国家予算があり、映画人同盟ではその予算を使って映画が作られていた。撮影する映画の本数や、誰が作るといったことを事前に決めて発注し、映画が作られるという形だった。当時の予算は1本当たり、2000万から3000万円程度になっていた。
 私は1994年にカザフスタンへ行ったが、この時期のカザフスタンでは国家予算による映画づくりができなくなっていた。そこで、私は1000万円以下の低予算で作れるインディペンデント映画を作ることとし、「ラスト・ホリデイ」という映画を製作した。これが東京やロッテルダム、カンヌなどの映画祭で評判を得て、そこからインディペンデント映画の芽が出てくる。インディペンデント映画は政府のお墨付きをもらって作る映画とは異なり、自由に作ることができる。カザフスタン政府はそれらの映画を取り締まるようなことはせず、むしろ国際映画祭で賞を獲得した場合には、「カザフスタンの栄誉だ」ということでもてはやしてきた。インディペンデント映画はどちらかというと、カザフスタンの暗闇の部分、悪い世界に焦点を当てている。国際的な映画祭で高い評価を得ようとすると、そういう映画が多くなるようだ。
 カザフスタン政府は映画の内容にはあまり関心がないようで、カザフスタン国内の映画館システムが崩壊し、上映機会の少ないインディペンデント映画には、検閲などは行われず、それらはそのまま世界に流れていった。政府は従来から積極的に外資を呼び込もうとしており、海外との共同制作によるインディペンデント映画づくりも自由に行われてきた。そしてカザフスタンが次第に豊かになると、特に2005年以降は国が映画に出す予算も大きな額になった。ナザルバエフ前大統領は元々、映画好きで、特にカザフ人が世界で活躍することを歓迎し、映画には寛容的だ。また、ナザルバエフ前大統領の長女で次期大統領候補ともいわれるダリガさんは、カザフスタンのハバールというテレビ局の社長も務めていた。当時のカザフスタンでは映画撮影の予算がほとんど国から降りてこない状態になっていたが、ダリガさんがハバールの社長に就任したことで、連続テレビドラマの制作などが始まった。そのような中で映画人も次第に潤ってきて、カザフスタンの映画産業は盛り返してきた。また、ナザルバエフ家の三女・アリアさんも最近、プロデューサーとして映画界に入っている。このようにカザフスタン、特にナザルバエフ家の人々は映画好きだ。

2. 「政治犯」となった日本人抑留者の阿彦さん
 私が現在、準備している映画は阿彦哲郎さんという日本人抑留者の話で、この映画を作ろうと言い出したのもナザルバエフ前大統領だ。ナザルバエフ前大統領は日本人抑留者の話に非常に関心を持っており、1994年に初来日して首相と会談した際には、日本人抑留者に関する本も持ってきた。そして、当時の細川護熙首相に対し、「カザフスタンには日本人抑留者が5万4000人もいて、この人たちの交流が現在のカザフスタンと日本の友好につながっている」と力説していた。さらに、私に対しても「カザフスタンで生活する日本人抑留者は現在もおり、それらの人々の話をやらなければいけない」と言っていた。
 私はその後、カザフスタンの大使館に赴任して文化担当部に所属し、抑留者問題への対応も始めた。カザフスタンにはかつて、シベリア抑留で捕虜になっていた日本人の一部が送られてきた。これらの人々は1946年から50年代前半の期間に抑留されており、その数は約5万4000人に上った。これらの人々のうち約1400人は現地で亡くなったが、大部分はその後、日本へ帰国した。私が赴任した1994年当時カザフスタンに残っていた日本人抑留者は、旧軍人の捕虜はおらず、阿彦さんも含め、民間人でいわゆる政治犯などとして収容され、流刑としてカザフスタンへ送られた人が多かった。
 阿彦さんは元々、南樺太の本斗町、現在のネベリスクに居住していた。終戦時、当時の樺太の人々、女性や15歳以下の子供の多くは日本への避難で成功したが、残ってしまった人々はソ連建設のために働かされた。そして阿彦さんは1949年ごろに突然、刑法58条という国家反逆罪、反ソ連罪で収容されることになった。阿彦さんは1945年当時、国民青年学校(小学校の敷地で、小学校の放課後の時間を使って、就労していた青少年に教育を行っていた)にいて、級長というクラス委員を務める中心的な人物だったことから、「反ソ連の扇動をした」といった罪をかぶせられた。誰かの密告だったという説もある。結局、反ソ連罪で強制労働10年の刑を受けた。ソ連は日本人抑留者に対し、1946~47年ごろは非常に厳しい部分があったが、それ以降は捕虜を「親ソ連」にしようとしたところがあり、あまりひどい扱いはしなくなったという。しかし、阿彦さんは反ソ連罪ということで、通常の日本人抑留者とは待遇が異なる政治犯収容所に収容された。当時は朝鮮戦争間際で、スターリンは既に朝鮮戦争の準備を開始、軍事産業を拡張して核兵器を作り始めていた。このような中でカザフスタンは軍事物資(特に材料となる鉱物資源)の供給拠点となっており、多くの政治犯がそこで強制労働に従事した。ノーベル文学賞を受賞したソルジェーニツインが収容されていたのもカラガンダだった。それらの収容所における労働状況は過酷なもので、政治犯には「できればそこで死んでほしい」という世界だった。
 このような中で阿彦さんは、銅鉱山に入れられたという。モーターなどに使われる銅は軍事物資の中でも特に重要で、有毒ガスが発生する中、露天掘りが行われた。有毒ガスの中で働いていたことから、多くの人々が3年以内に死んでしまうといわれた。阿彦さんも約1年で倒れ、50キロあった体重は25キロまで減り、もう労働は不可能ということでスパースクの収容所に移送された。スパークスの収容所は、当時、療養所があり、他の収容所で働けなくなった人たちを集めて死ぬのを待つような場所で、ここには日本人墓地が最も多い。阿彦さんもまもなく死ぬのではないかということで収容され、約3年間そこで生活した。そしてスターリン没後には恩赦を受け、収容所を出ることになった。捕まった当時、樺太はソ連領になっていたため、阿彦さんは「民族は日本人だが、国籍は?」ということになり、そのままカザフスタンに永住するよう言われた。住民票も与えられず、月に1度、内務省に出頭して登録をしながら生活を続けたそうだ。

3. カザフスタンで進む阿彦さんに関する映画の撮影
 今年の1月、シベリア等抑留の未帰還邦人を支援する日本サハリン協会の会長から「在東京カザフスタン大使館から阿彦哲郎さんの映画をカザフスタンが作るので、共同制作者を探して欲しい」と頼まれたので、映画製作に協力してほしいと依頼があった。私は阿彦さんを以前から知っていたが、逆にあまりにも近い存在だったので、映画にしようとは思わなかったが、強制収容所というテーマは、映画作家として、創作意欲を掻き立てられるテーマであった。だが、カザフ側と連絡を取り始めると、彼らが作ったシナリオを私に送ってきたが、彼らは、阿彦さんを元日本軍人の捕虜抑留者と勘違いしていて、阿彦さんがいたスターリン時代の政治犯収容所の悲惨な生活がうまく描けておらず、映画としては弱い作品になりそうだったので、「政治犯収容所」をテーマに私が全面的に書き直すことにした。
 しかし、阿彦さん本人は「政治犯収容所での話は国家機密であり、他言できない」と言われており、あまり話したがらない。そこで、強制収容所の資料や情報を集め、強制収容所のエピソードを中心にしたシナリオを、3月中旬までに約2週間弱で、1本完成させて送った。スターリン時代の収容所の話なので、最初はこのような映画を作るのは、現在、ロシアでのスターリン見直しの機運がある中で、どう捉えられるか、不安に感じ、現代のカザフスタンやロシアの良い点を描いた部分も色々シナリオに加えてみた。しかし、カザフスタン側から「スターリン時代の収容所に関する部分だけあれば良い」と言われ、スターリン時代の政治犯収容所を正面から描くシナリオになった。
 ナザルバエフ前大統領は2015年ごろに来日した際、国会で阿彦さんに関する演説を行い、「大変な苦労された日本人が、今もカザフスタンで生きている」という話をしていた。そして翌年には、カザフスタンで演劇を作り、2017年末にはカザフスタンが資金を出して東京公演も行われた。そのころに、映画づくりの話も出てきたそうだ。カザフスタン側には日本人とカザフ人の友好に関する映画を作り、カザフスタンの知名度を日本で向上させたいという想いもあると思う。
 今年3月に映画のシナリオができあがると、ロシア語に翻訳し、4月中旬ごろからカザフスタン政府の人たちと話し合いを始めた。すると、たった1、2週間でカザフスタン政府が予算を出すことが決まった。カザフスタン側は急いでおり、今年中に30%、来年は70%を撮影し、来年中に完成させるよう求められている。また、本作品の音楽監督を務める文化大臣からは「カザフスタンにおける現在の阿彦さんが、カラガンダの収容所犠牲者の記念碑を訪れるシーンを撮影してほしい」といわれているが、これについては阿彦さんの健康状態を考慮して行わなければいけない。
 主役については現在、日本人の俳優を選考しており、8月20日ごろから撮影を開始する予定だ。映画は樺太のシーンから始まるため、カザフスタンのアルマトイから約50㎞離れたカプチガイという人口の湖に、樺太の本斗町のセットを作っている。その後は、収容所のセットも作る予定だ。カザフスタン政府が負担する映画の予算はかなりの額になっており、米国在住のイタリア人カメラマンや韓国の著名な映画音楽作曲家にも仕事を依頼するなど、カザフスタン側は製作規模をどんどん拡大している。ただ、カザフスタンで国が多くのお金を出した映画は、国際的にはあまり高い評価を得られていない。やはり国際的には、インディペンデントで自由に作られた映画への評価が高い。今回の映画で、これまで作ってきた映画と同等の国際的評価を得る作品にできるか、私にとっては試練となるだろう。
 カザフスタンの人々はソ連崩壊後、貧しい状態になり、劣等感が強くなっていた時期がある。そのような中でナザルバエフ前大統領をはじめ、カザフスタンの人々には、世界で活躍する部分をアピールしたいという気持ちも強かった。そしてカザフスタンは映画の世界でかなり、世界に知られるようになった。このような状況を背景に、政府からお金をもらわないで作るインディペンデント映画は自由に作れるが、資金集めは苦労している。政府から出る予算で作る映画は、潤沢な予算である反面、当然、企画選定者の意思を忖度する雰囲気があり、思い切ったものは作れていない。そう言った課題をどうするか、また、カザフスタンが豊かになるにつれて、自由に作っていた映画のテーマも、他国と代わり映えしないものになってきている。世界で注目を浴びるような映画をどう作るか、これからが本当の勝負と言えるかも知れない。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:国際経済連携推進センター)

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